human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

2日目(後):鐘の追憶、風の記憶

cheechoff.hatenadiary.jp

(承前)

 その寺は小高い山の中腹にあって、山へ向かう道は、途中まであった家々がなくなり、手入れのされていない無骨な自然とその間を抜ける高架になった車道を突き抜けて進む。ここから先が敷地であるらしい門をくぐると、木々がいっそう茂って頭上に濃い緑が被さり、薄暗い。近くにトイレがあり、丸太のベンチがあり、敷地内の地図や寺の由来などが書かれた案内板がある。さっき会ったおじさんから、本堂まで階段が数百段(ぞろ目の数字だった気がするが忘れた)あって大変だと聞いており、ベンチに座って小休止しながら頭をひねる。持参のサンダルは勤行を心静かに行うためのもので、寺の門をくぐって納経所のそばにあるベンチに着くまでは一本歯を脱がないという暗黙のルールがそれまでにできていた。しかしまだ旅を始めて間もないし、無理をするのもよくない。納経所まで遠くとも、門をくぐれば履き替えていいことにしよう。これは自ら札に書いた「身体賦活」に背くのではなく、むしろ従うことになるはずだ。云々。

 山を上り、お寺に参り、山を下り、街中へ向かう。車が絶えない主要な道路のすきまをぬうように細い生活道を歩く。戸建ての民家がゆったりと並ぶ。道の片側がひらけて田んぼになり、用水路の水が並走する。小学校のチャイムが聞こえる。このありふれた鐘の音を耳にすると、つい会社で働いている人々のことを考えてしまう。前にいた会社のことだ。辞めて半年近く経つが、会社員としての心持ちがきれいさっぱりぬけ落ちた、というわけではないようだ。
 そりゃあ働くことは好きだし、「何もしない」よりは働いている方が、おさまりがよい。おさまり、とは何だろう。社会へのおさまり、だと思うが、じっさいのところそれは会社へのおさまりで、その場から離れてしまえば何の意味もない。言い方を変えれば「余計なこと」を考えなくていいということだけど、その「余計なこと」はじつは大切なもので、それのために、あるいはそれを考えるために働いているのではなかったか。そして会社を離れて、そのすべてが「余計なこと」であるような生活をして、ありがたみを忘れてしまったのだろうか。他人の芝は青く見える、ただそういうことだろうか。
 違う、そうではない。人の目を気にし過ぎで、でも自分を見ていると思っている他人は自分の中にいて、しかもその他人の生活と自分の生活に関係があると思っている。もっといえば、関係がなければならないと思っている。つくづく面倒な人間だ。「夢の中から責任が始まる」というイェーツの言葉を鵜呑みにして、一般化しようとして拡大解釈をして、ちりのような架空の責任がつもりつもって山となり、想像上の堆積物でぺしゃんこに押し潰されかねない。風に表面を削り取られることもなく、雨が染み込んで壁にひび割れが起きることもない、褪せず朽ちない砂の楼閣。劣化しないなんてたちが悪い。頭がそんなものに執着するなんて頭がおかしいことを理解しているのに決して止めようとしない頭は、本質的に狂ってるんじゃないか。いやいや、落ち着こう。歩きながら考えるとろくなことが起きない。靴で歩いていて目に見えないでっぱりにつまずくくらいなのに、一本歯を履いていればなおのこと危険だ。くわばらくわばら。課長の名前といっしょだ。いやいや。

 老人ホームだかケアセンターの玄関横に作られた休憩所で持参の飴を1つ食べる。立ち上がって道に戻ると、すぐ堤がある。歩行者用の階段を上りきって堤の上に立つ。ずっと先に対岸の堤があるが、こことあちらの間で水が流れている幅はそれほど広くないように見える。でもその川はじっさいは大きな川で、それが小さく見えるほど堤と堤の間が遠く離れている。川にたどり着くまでに竹林があり、だだっ広い田んぼがある。建物がほとんど見当たらないのは、やはりこの辺一帯が沈むことがあるからだろうか。
 堤を下りて川(の敷地内)を横切る道を歩き始める前から強い風が吹いている。草むらにちょこんと置いてあるブロックに座って休憩する気にもならない。菅笠ががたがたと鳴り、あごにかけた紐がとれて吹き飛ばされそうになる。菅笠を守ろうと五徳を手で支えると、笠部分が五徳からもげそうになる。あわてて手を笠のつばに持ち替える。そしてその体勢を維持して歩く。腕がだるくなる。耳は風の音で満たされている。肌寒いのかそうでないのか、よくわからない。体がつねに緊張状態にあり、ものを考えることができない。風と一体化できればさぞ楽しいのだろうが、菅笠が受けてしまう抵抗の重みと、一本歯の不安定な足もとに気をとられて、風は完全に自分に敵対しており、自分は風にとって取るに足りない異物であるとしか感じられない。
 風、風、風。
 それでも何かを考えようとして、ふと村上春樹が小説の中で主人公に言わせていた言葉を思い出す。初期三部作のどれか、いや翻訳ものだったか、あるいはその解説で引用していたのだったか。「なんでもないようなことを考えるんだ。ただ風のことを思えばいい」。この言葉は、うまくいかない日常から、いっとき離れるための呪文のようだった。そしてこのなかの「風」は、過去に彼が味わったいくつもの、どれも心地良い風だったはずだ。ぼくはこの言葉に出会った時に「いい言葉だ」と思って、自分の中にあるはずの風の記憶を呼び寄せようとして、純粋な、ただ風としての記憶が一つもないことを知ったのだった。川の道で荒々しい強風にさらされながらこの呪文が思い浮かんだ時に思ったのは、「これは"純粋な風の記憶"になるだろうな」ということだった。決して心地良い風ではない。でも、ここには自分と風以外に登場人物はいない。付属的な要素のない、混じりっけなしの風なのだ。よくわからないけれど、まあいいじゃないか。使い方も使いどころも違うけれど、自分を励ますように呟いてみる。"Think of nothing things, think of wind."
 田んぼを抜け、もう一度竹やぶを抜けて、ようやく川の水のある所にたどり着く。つまりそこで道は橋になるのだけれど、ごくふつうの橋にあるべき手すりがなく、手すりがあるべき道の端には縁石でわずかにもり上がっているだけ。歩道もないし、さら悪いことには車線が1つしかない。歩行者と車がすれ違うための待機場所が橋の途中に2箇所あるが、それは歩行者よりも車のためのものであるらしく(もちろんそこにも手すりはない)、その場所にたどり着くまでが長い。一本歯で橋のすみっこを歩きながら横を車に通られたりしたらふらついて川に落ちそうだし、なにより恐ろしいことに、さっきから吹き荒れ続けている風が橋の上では道に対して横殴りに吹いている。車通りも意外と多くて、道の見渡せる範囲で車が一台もない時がほとんどなく、車を待たせずに通るのは不可能であるように見える。予想外に過酷な状況にいきなり出会って、渡り始める勇気がまとまらずにしばらく呆然とする。これは試練なのだろうか。ここで川に落ちた遍路はまず一人もいないだろうけど、それは何のなぐさめにもならない。ここを一本歯で渡った遍路もおそらくは一人もいないからだ。全身が小刻みに震えている。寒いのだろうか。よし、寒いことにしよう。ううう、春先の四国は冷えるなあ。
 なんにせよ、他に選ぶ道はないのだ。

 這々の体で橋を渡り、対岸というには遠すぎるように思われた堤をようやく上る。街並がこまごまとした別の町に入り、風とのやり合いに疲れた足どりで上げたいペースは上がらぬまま、納経時間内ぎりぎりに寺にすべり込む。翌日はひねもす山道で、その山のスタート地点にあたる11番は宿との位置関係上翌朝も通ることになるが、今日の間にまわっておくことで翌日歩く時間をかせぐことができる。素朴な自然に囲まれてひっそりとした境内のベンチで息をつく。勤行を終えて、寺から近い今日の宿に到着するまでに日が暮れる。

 川と同じ名の旅館は新築で、部屋も風呂もアパートマンション然としている。そのものですらある。居心地が良いのはそのための安心感ゆえだろうか。宿泊客はみんな遍路で、食堂で交わされている会話のすべてが耳寄りな内容に思える。相席したのは歩き遍路3回目という奈良の老夫婦で、旦那さんは明日の山越えの道の険しさについて語り、奥さんは今日と明日のお昼ご飯について語る。関心の対象がきれいに分かれて、お互い相手の話にとやかく口をはさまない。仲のよい夫婦のひとつの形だと内心思う。昔の歩き遍路事情についても教わる。今みたいに高速道路が整備されていない時代は、そのまた昔とは違った意味で命懸けという感じだったな。歩き遍路道も交通量が多かったし、歩道のない道なんかは車とすれすれで歩かねばならなかったんだよ。団体さんの一人ひとりがみんな、旗を手に振りながら歩いたりもしていた。今でもトンネルなど危ないところはあるけれど、トンネルなら反射板をリュックにつけるといいよ。
 風呂でタオルと下着を洗い、部屋に干す。洗濯機は遍路宿ならだいたいどこでもあるらしいが、有料であることよりも、洗濯物の量が少ないことに抵抗がある。ズボンや白衣など、まとめて洗う時に使うことにする。部屋にあるテレビでは天気予報だけを見る。荷造り、日記、歯磨き、とやるべきことをしているうちに眠くなる。