human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

0日目:駅と渦と梅 2017.02.28

足袋は靴ずれ、ヨハネスブルグ

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 京都駅ビル大階段の途中の展望エリアから眺めるロータリは、人も車も動いてはいるが、ジオラマのようにその中が空っぽに見える。いや、ジオラマの一つひとつの要素にも中身はある。空っぽなのはぼくの頭の中か、それとも目の中か。

 海が見え、橋が見え、これから渡る島が見えてくる。海が目に飛び込んでくる瞬間はいつも新鮮で、それは海よりも山の方に親しみがあるからだと思う。静まりかえるバスの車内に、ぼくの心も静けさで満たされる。これから始まる旅の大きさを想像できない。躊躇も少し残っている。きっかけを待っていて、それはどちらに転んでもいいという思いが頭をかすめる。そんなはずはない、と否定してため息をつく。

 大橋の下で潮がぶつかってできる大小の渦を眺めつつ、うどんをすする。すぐ前に漆喰の柱があって、首を少し不自然に曲げないと見えないにもかかわらず、執拗に渦を見つめる。見つめすぎて海が煮え、渦のすきまから泡がぽこぽこと浮かんでくる。穴子の天ぷらはうまいが、あの渦はどうだ。ずっと回り続けてきりがない。潮の干満によって成長し衰退するというが、いくら見続けてもわかりゃしない。そんなことに意味があるのか。意味はない。もちろん。

「渦の道」は寒く、風がひっきりなしに真横から殴りかかってくる。不自然な巨大構造物の下に作られた不自然な展望回廊では不自然に強い風が吹き荒れ、足下は不自然に透けている。そりゃあ渦も不自然に見えるってもんだ。自然さという点でいえば、テレビで見た方がまだましだ。そのようにしてわずかに維持された自然さに、もはや何の意味もないにしても。

 バスと電車を乗り継いで1番の寺に到着し、門の外からちょっと覗くだけで通りすぎる。スタートは明日で、今日は前日入りなのだ。一本歯を履き始めるのは寺か旅館かと悩みつつ、神社へ向かう旅館までの道を歩く。広い梅園があって寄り道をする。枝がちょうど背の高さくらいに張り出していて、花に近づいて匂いをかぐ。鼻をぴとりと花にくっつける。桜の花みたいだと言ったら気を悪くするだろうか。梅は桜に比べて鷹揚ではなさそうだし。日が暮れてきたので先を急ぐ。

 夕食は広い食堂に客はぼく一人で、テレビニュースを見ながらゆっくりと食べる。刺身やらなんやら。天気予報には四国の島と、別枠で東京の明日の予報が表示される。いかにも欄外という感じで、特別にピックアップされた一地方のようだ。知りたい人もまあいないとも限らないしね、というような。テレビの音がよりいっそう際立たせるくらい静かなこの徳島の食堂から東京までは、じっさいの距離以上に遠いんだなと思った。四国とはそういうところらしい。

 一人と思ったら隣室にも客がいて、鼻と口のヂュオによるいびきが滞りなく奏でられている。静けさを期待していたのに、初日からこれだもの、やれやれ。でも当然ではあるが、宿は選べても隣の客は選べない。それは都会でも地方でも同じ。出発前は不眠症ぎみで、最初くらいはぐっすり寝たかったのにとぐずぐず考え、騒音の匿名性とその許容量の相関についてひととおり考察し、むりやり頭を納得させる。それでも身体は騒音に納得することなんてどうでもよいらしく、頭の切なる願いもむなしく、眠りは枕の上までやってこない。眠りの匿名的な到着を待ち続け、夜は更ける。

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