前に書いた壁登りジムへは16日に行こうと思います。
ニトリに注文していたペールボックスを取りに行くので。
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オーブン余熱利用は今朝からさっそく始めました。
プロジェクトと銘打っただけある。
モーニングセットを焼いている間に天板の温かい場所を探して*1ベーコンの空きトレイに乗せた浸々ティッシュと種を置いておいたんですが、食後に片付けている間にふとオーブンの中に入れることを思いつきました。
15分くらいオーブン機能を使って約1時間後のチャンバー内温度が24℃で、1.5時間経過後も数値はそのままでした。
ゴーヤの種の発芽に適した温度がたしか25〜30℃だったので、このアイデアはなかなかいけそうな気がします。
空気の循環がない分は時々フタを開け閉めしてあげればよいでしょう(種の時点で通気性は考えなくてもよいかもしれませんが)。
入れたまま忘れてしまうとかわいそうなので、タイマーを使います。
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キッチンについて。
ひとまず大きなものはもう増えなさそうなので、落ち着いたとみなしてちょっと書いてみます。
洗い場とガスレンジの奥には色々置けそうな幅広のスペースがあって、最初は洗い場の奥にできあいの乾燥用食器置きがあれば順当だと思っていたんですが、ものを増やしたくないのでしばらくは買わずにいて、洗った食器はスペースに直接置いていました。
何度かホームセンタに通ううちに「吸水マット」なるものを見つけ、試しに買って置いてみたところ、これがなかなかいい。
食器置きのように平皿や茶碗を立てるガイドがありませんが(ただのマットなので当然です)、そのために洗った食器をどう配置するか、その前にどの食器から洗うかに頭を使うことになります。
それが面白くもあり煩わしくもあるんですが、それを面白いと思えている時はいい気分でキッチンに立っているんだろうなと思うし、食器の一つひとつに気を配る必要性から食器に対する扱いが丁寧にもなります。
洗い方としては、小さくて底が深くて安定性の高い食器をまず洗ってマットの端に置き、それをガイドにして、あとは大きさや重さを考えて他の食器を裏返して立てかけていきます。
夜に朝夕食分を洗うなら、夕食に使う食器を先にマットに置けば、翌朝使う分だけを手に取れます。
たとえばこんな↓感じ。
ボウルやザルなどの調理器具はマットとは違う位置のスペースに直接置きます。
しゃもじやへらといった手で扱う器具はマット上の皿に立てかけることもあります。
2枚目の写真の右側はサラダスピナで、野菜の水切りに使います。
『サラダ教本』(坂田阿希子)を読んで初めて買ったんですが、この本の言う通り、水をしっかり切るだけでサラダが見違えるように美味しくなります。
水菜やレタスなどの葉っぱもの、それから玉ねぎや根菜のにんじんでも薄切りにした場合などは水切りの効果大です。
…本題に戻りますが、このサラダスピナは部品が全部で4つに分かれるので、洗ったあとの置き方にしばらく試行錯誤したんですが、この写真の感じでいちおう落ち着いたような気がします。
今朝のことなので、まだ定着していませんが。
キッチンまわりは落ち着いたと言いながら忘れていたんですが、生ゴミのテンポラリな行き場についてはまだ思いついていません。
シンクのコーナにカゴを置くとシンクが狭くなるし、蛇口の付け根から網状の袋をぶら下げるのがスペース利用法として妥当かなと思っているんですが、それはなんだか審美的に許容できない。
思いつくまでシンク横の作業スペースの端に固めて置くことにしているんですが、もうこれでもいいかという感じもします。
『野菜のだしで作るVegetable Soup』(樋口正樹)では、調理で出てくる野菜の切れ端を集めて煮込む「野菜だし」が全レシピ必須の素材で、これを実践していると生ゴミは細かいものというか、あまり細々とは出てこなくなるのです。
それで生ゴミは1日1回ペースで直接燃えるゴミ袋に放り込んで、週2の回収に出しているんですが、今はいいとして夏場は大丈夫かどうか。
暫定的という意識は持っておきます。
シンク奥スペースの窓に立てかけている洋書は、海外のアパート部屋の写真集です。
引っ越してきて間もない頃に段ボールの中の本を整理していて、この本は変則サイズなので本棚に他の本とは並べにくくて、周りを見渡すとがらんとしたキッチンが目に入って、何げなく置いてみたのがそのまま定着しました。
要するにディスプレイなんですが、キッチンの審美性を意識するおまじないでもあるし、水場における本という「生もの」の存在感もあります。
3つ目は今思いついて言葉にしましたが、紙にとって水は大敵であって、カバーも付けずにキッチンの作業スペースに置くなんて常識的にはありえません(この洋書は表紙が厚いので水は若干弾きますが)。
が、上に書いた吸水マットに食器を並べる話とも通じるんですが、水はねを嫌うものが近くにいることで、シンクにおける炊事のふるまいが丁寧になります。
これらのことは、僕が常にそういう意識を持って台所に立てるというよりは、僕が自然にそう振る舞うようにマットや本が配置されている、いわゆるアフォーダンスについての話です。
前者と後者は一緒に見えて全然違っていて、出力側から見れば同じにも思えますが入力側から見れば全く異なる。
例えば、テスト勉強せずに単位が取れて喜ぶ大学生なんかは前者のマインドに該当します。
過程を大切にするというのは、出力だけでなく入力も(そしてもちろん「入力と出力の間のこと」も)見ることです。
思いつくまま、気のままに書いていますが、最後にスピーカの話を。
シンク奥スペースの両端にある小ぶりの黒いスピーカは木製で、底にコルク製の脚がついているから音の響きが床に邪魔されず良好であるというONKYOの売り文句になるほどと思い、2004年に購入してからずっと使っています。
何度かグレードの高いものに買い替えようと思ったことがあるんですが、別にこのスピーカの音に不満があるわけでもなく、そのつど家電製品店で物色したりネットで探したりしながらも、時間が経つうちにうやむやになって今に至ります。
村上春樹は昔小説家になる前はバーだったか小料理屋をやっていて、その頃からずっと使っているのだったか一度買い替えたのだったか、レコードデッキと共にスピーカに対しては強いこだわりがあって、「スピーカはその人の音楽鑑賞における身体を形成する」というようなことをエッセイに書いていました。
つまり、最初は安物で間に合わせて手持ちのお金の余裕に合わせてだんだん高価なスピーカに買い替えていく、というサラリーマン人生になぞらえたような音楽鑑賞スタイルは身体(耳)ではなくお金(収入)の都合でしかなく、廉価品であれ高級品であれ、どんな質のスピーカであっても長い間それで音楽を聴き続けるうちに、耳というよりは身体全体が振動に適応していき、そのスピーカの音が「自分に合う音」になっていく。
時間のスパンが全然違いますが、カツ丼を食べる前にずっとカツ丼のことばかり考えていると「胃の内側がカツ丼の形になる」(@内田樹)というのも同じことです。
…話を戻しますと、スピーカを水場に置くというのも家具が全然足りない引っ越し当初に場当たり的に決めたことだったんですが(床に置くよりは何でもいいから台の上に乗せたい、という程度のことでした)、置いてみるとこれも予想外にフィットして、キッチンに立つ楽しさを根っこの方で支えてくれています。
そしてこのスピーカも、マットや洋書と同じく、アフォーダンス的存在でもあります。
ただ、右側のスピーカがガスレンジの右側コンロの真正面にあり、炒め物や揚げ物をする時に(調理の丁寧さとは関係なく)油がはねそうな気がするので、何か対策をした方がよいかもしれません。
アルミシートを立ててガスレンジを囲うのは論外だし、スピーカの前に壁をつくると音が跳ね返ってしまうので好ましくない。
妙案はすぐには浮かんでこない*2ので、これもひらめきをゆっくり待つことにします。
こういう生活じみたことをつらつら書くのはとても楽しいですね。