human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

親指のスライス

クッキー周造(←九鬼周造のダジャレです)とは打って変わってマジメな話を書こうとして、でもその前に腹ごしらえをと夕食を作っていたら、セラミック刃のスライサーで大根と一緒に親指(のちょうどスペースキーを打つ部分)を3ミリほどスライスしてしまい、応急処置にあわあわしながら作り続けて食べて、食べ終わっても血が止まらなくて止血方法を調べて(→「圧迫止血」というのがよいようです。出血部分を強めに10分程度押さえる。その後はなりゆき)片手を上げつつぐったりできる方法はないかと思い久しぶりにニコニコ動画を見ているうちにマジメな話はその内容が頭からすっ飛んでしまいました。

過去にマイリスト登録した動画の中で見たいものを見るついでにリストの整理をしました。
時々別の動画に気が逸れたりしたんですが、ある動画を見始めてまず何を考えるかというと「マイリストに登録するかどうか」であることに気付きました。
つまり後でもう一度(あるいは何度も)見たくなるかを最初に考える癖があるということなんですが、これは現在に集中していない態度で、食事に喩えるなら「好きなおかずを最後にとっておく」のではなく「最後にとっておくおかずを食べながら考える」で、今食べているおかずが上の空でちゃんと味わえていない。
あるいは「未来のための貯金」が自己目的化した状態にも似ています。

保険会社は嫌いなのに自分が保険会社的な発想をしているのが不思議で(何しろまだ起こっていないことを事前に想定しておいて対策を打ちまくっているわけです)、これはたぶん「現在に集中するという実感がない」、いや言い直せば「未来の想定も現在における想像つまり現在への集中であるという認識でいる」のでしょう。
これは屁理屈で、その場にいること=実在性の強度とその場に根差さない想像=非在性の強度の差を無視した考え方であるというのが常識ですが、ここでいう「強度の差」が小さい、あるいはむしろマイナスである性質の人も存在する、、ということを野口晴哉氏の体癖論によって知りました。
体癖論における「上下型の1種」というのがそれで、晴哉氏は奥さんが1種であり「彼女は頭の中のことの方が現実なのだ」とその著作に書いていました。

僕も1種なのかもしれず、しかし「自分は1種だ」という決めつけは現実逃避の正当化にもなり得るのが厄介なところで、身体性の賦活に力を入れ始めた背景はこれだろうかと今思ったりしますが(身体はどこまでも現在のものです)、結局のところ「身体のいきいきした感じ」は身体が脳と比べて優勢の時に実感できる状態で、脳が優勢であれば「身体のいきいきした感じ」は実感ではなく理解に留まる、そういう風に納得してしまえるのが1種なのだろうか、となんだか思考が堂々巡りしています。
(堂々巡りするものを思考と呼ぶのでしょうか?)

話を戻せば、脳偏重であれ「現在に集中する」ことは可能で…、違うな(いや、今書いた当たり前すぎる事が違うのではなく、自分が言いたいこととは違うということ)、保険会社的思考だろうが無闇無謀の無鉄砲思考だろうが「頭の中の出来事」としては同じで、似非未来志向なんてのは単なる悪癖に過ぎなくて意志を以て矯正可能だということ

お金に関してはやっと「貯蓄魔」をやめて純粋な支出生活をしているのだから、頭だってそれに合わせればバランスがとれるはず。
未来のことは、ほんとうに大事なことだけ考えればいい。

というわけで「いつか見るかもしれない」と7,8年溜めてきたマイリスト動画を、今の判断基準に従ってほとんど削除しました。
本当に見たければ動画名なり作者名なりを覚えていて検索できるだろうし、逆に覚えていなければそれは別に見たい動画ではなかった、という涼しい認識。
森博嗣氏が「エッセイや小説のネタをメモにとらない」のもこれで、氏は意識下の自分を信頼できているのですね。
見習いたいです、今度こそ。

本記事タイトルはこの作品名を意識してつけました。
親指の皮をスパッと切り落とした瞬間に、この本の講談社ノベルスの方の表紙絵が思い浮かんだので(ぶるぶる)。
森博嗣氏の話で落ちたのとうまく符合しましたが、これは偶然です。