human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

『家守綺譚』、いまさら反抗期、いやはや花粉症

小島信夫集成シリーズは『墓碑銘・女流・大学生諸君!』を読んでいたところだったんですが、先の一本歯実践編2日とその後の遍路準備的なあれこれがあって間があき、今日4、5日ぶりくらいに続きを読んで「墓碑銘」を読了すると、小島信夫熱が冷めました。

まあそれはそれでいいとして、ではなにが読みたいのかなと本棚を眺めて、引き寄せられるように手に取ったのが、いつ読んでやろうかとストックしていた初読本ではなく、学生時代に一度読んだ『家守綺譚』(梨木香歩

読み始めるとスッと入れて、前に読んだ時に感じたよりも大きな「よい感じ」、安心感というのか、落ち着きを感じています。

寝しなに読んでいる『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹)が主人公の境遇が今の自分とそっくりで、それと似たものを『家守綺譚』にも感じるんですが、それだけでもない。

 × × ×

そのことと関係があるのか、ないのか。

いま自分は何もしたくないのだ、とふと気付きました。
そう自分に認めることを許した、と言ってもよい。

これまで、周りの価値観にのっかるにしろ僕で勝手に思い込むにしろ、生産的なことをやり続けてきたように思います。
ものごころついてからの話ですが、それは生徒であり学生であった頃も含めてのことです。
小島信夫の「大学生諸君!」を読み始めて少しでやめてしまったのは、いま大学生の気分になれないというのではなく、「自由を謳歌する大学生」という名目を当時の当事者であった僕も意識してはいながら、その僕と「大学生諸君!」の学生たちとの間に本質的な、距離は近いながらも目の前を崖に阻まれたような遠さを感じたからかもしれません。
また家にいて工事の音(近くの新設マンション工事は引っ越し当初から続いていましたが、すぐ隣のスポーツクラブの増設工事と鴨川河川敷のおそらくは歩道工事とが始まってからは家のどの部屋にいても日中は工事の音が聞こえてきます)が気にさわるのは、身体レベルでの不快感だけでなく、工事の音が「生産性の象徴」として聞こえてくるからかもしれません

本来の来るべき時に訪れる反抗期を一人前に、または「一人前に半人前に」経なかったのではないか*1と今あらためて思うのは、今の自分が反抗期の中にいるかもしれないという認識で、しかしその中で反抗すべき具体的な対象はもうないのです。
ではいかなるものに反抗しているかといえば、言葉にすれば生産性や効率、または社会といったもので、いやものとは言えない言葉以上のものではない言葉。

時に心に落ち着かさを自覚するのは、ひとつはその具体的な対象がないせいでしょう。

おそらくそれはそういうもので(つい「もの」と言ってしまいますが)、今さら反抗期かと思ってもそれはそれで仕方ありません。
反抗すべき対象のない反抗期ほど始末に負えないものはありませんが、あるいは成長、加齢、老いのステップとして一般的に避けられない(避けないことが推奨される)ことであるのだとすれば、それを経験しておいてもよいのでしょう。


頭のフェーズが切り替わったようなので(これは小島作品に飽きたことを指しています)、ちょっと分析してみました。

 × × ×

遍路地図を1番から88番までたどるように目を通し終えました。
20km/日で毎日宿に泊まれるかどうかを検討しながら見ていて、いくつかの山越え、峠越えを除けば順当に行けそうです。

自然道でも地肌と砂利道とでは歩く速さは大きく変わってくるので、一日山道の日ははたして20kmすら歩けるのか分かりませんが、距離をかせがざるを得ない場合は寺での勤行時に履き替えようと思っているスポーツサンダルを使えばなんとかなるはず。
というわけで一本歯とともにスポーツサンダルでも長時間歩行を一度は経験しておかねばなりません。
よりよくは数日続けての長時間歩行を。

心配事は歩き関連以外では、花粉症がここ数日で持ち上がってきました
シダトレンが効いて今期は対症薬(フェキソフェナジンとアルガードプレテクト)はいらないだろうとタカをくくっていたのが油断大敵火がボーボーで、季節外れに暖かくなった数日前の夜に急に鼻水が出てきてから後悔しました。
(例年は鼻より目に症状が先に出るんですが、鼻が早かったのは昨夏に会社を辞めて以来PCで目を酷使していないからでしょうか)

薬はもう使い続けるしかなくて、出発までに症状が酷くなったりすると考えものですが(マスクとゴーグルをしながら外を一日中歩く気にはなれません)、本格的に花粉が飛び始めるのは出発してしばらくしてからのことで、この点は旅立ってみないことには判断ができません。
出発を秋にする気もないので、あるいは道中であえなくリタイヤということもあり得ますが、これは花粉症に限らず怪我でもいえることで、そうなった場合は仕方がない。

歩き続けるために歩く以上、歩けなくなれば諦めるほかありません。
(そういえばちょっと前に山頭火の日記のことで彼が「歩かざるを得ないから歩く」と書いていたと言いましたが、これは表現が違っていて「歩かずにはいられないから歩く」でした。似ていますが、後者には動機が内的で身体的なものであるというニュアンスがあります

今は身体に従いたくて、つまり、ここぞというときにはなるようにしかなりません。

*1:高校生の頃のことで、具体的な記憶は浮かんできませんが、自分の性質を棚上げして当時の印象を振り返ると反抗し甲斐のない境遇(「反抗を正面から受け止めない(何か別のものに置き換える)母」と「妙に物わかりのよい(当事者的でない)父」)にいたように思います。あるいは自分に原因を求めれば単に反抗の仕方を知らなかったか、兄とは違うことをすることばかり考えていたか。