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お遍路天狗の京都修行日記

ただいま一本歯で四国遍路中。

自分の芝で

~2000字 思考

ちょっと正気に戻りました。

「考えたくないこと」と昨日書いて気にかかっていました。
主観的に言えばそれで間違いはないんですが、ちょっと離れて見ればそれは「考えを強いられること」です。
強いられる、という言葉は強いですが、何事も縁として見る自分にはそう思えます。
そしてその自分のスタンス上、強いられる原因の半分は外部にあるとはいえ、もう半分は自分のせいです。
とはいえ、外から無闇に情報を取り入れる必要は元々なく、自分のスタンスを貫くうえでもそれは衛生上よいことです*1


また、これも昨日書いた「書く姿勢が変わってきた」、「書く目的は書きながら考える」ということも、自分で妙だと思いながら書いたわけですが、それは当たっているのです。
書くことを前提に考えればそうなります。

それで、ちょっとこの前提を外してみようと今朝思いました。
もともとブログを(本気になって)書き始めたきっかけは「過去の自分がなにを考えていたかが全く思い出せずに愕然としたこと」でした。
つまりもともとは記録としての機能をブログに担わせていたのでした。
それから、書きながら考える=書いてこそ生まれる考えがあるという書き方に発展していき、記録以上のものを見出すようになりました。
その記録以上のものを生み出す原動力が自分の分析的思考にある、ということを今朝認識したのです。
もちろん分析的思考を創造的に機能させるうえで連想が欠かせず、連想は自分にとってとても重要な脳内活動で、ふつうの人が思うように「日常生活に支障を来さないために常識的な範囲で制限する」ことをしない努力をしてきました。

その連想を…いや、分析的思考と簡単に切り離せるものではない気もしますが、だから連想の自由度も影響を受けるとは思いますが、言いたかったことは、分析的思考をせずしてブログに書くことは特にないということです。


そしてこれは興味の話ですが、書くことで客観化して生活の秩序を保ってきた面が働いていた頃にせよ今にせよあって、これも一度外してみようと。
「今だからできること」をいろいろやっている中のこれも一つになるのですが、最近さわりを読んだ『村上春樹河合隼雄に会いにいく』に、(社会に対する)デタッチメントとコミットメントの話があって、村上氏の初期の小説はデタッチメントを基調として書かれていて、氏が外国に何年も住むようになってから氏自身の中で考え方が変わってきて、次第にコミットメントについて考えるようになった、といったことが書かれています。
自分は「来る者拒まず」と思うことがコミットメントだと思ってきた節があって、でも「去る者追わず」がその後に付くことで、そして結局は自分から関わる意志がないことでこれはデタッチメントなのだ、と上の本を読んでしばらくして気付きました。

なにが言いたいかというと、自分が自覚していなかったデタッチメントという心情を、自覚して生活してみるとどうなるだろうかと。
外に表れる振る舞いを変えるわけではなく、自分の中の意識が変わる。
その意識が変わることが振る舞いを変えることはあるかもしれない。


たぶん、他人の芝として憧れて見ていたものを、いざその他人の家に住んで庭でぶらぶらしながらもまだ他人の芝として憧れて続けていた、ということだと思います。

「今だからできること」とは、想像の基点を自分の芝に置くことです。

*1:これに関連してfacebookのアカウントを停止しました。完全削除はしていないので、また再開することもあるかと思います。