human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

分析的でない文章、花見の第二十八歩

今日は三食の内容も含めて昨日と同じ、判を押したような日でした。
こういうことになりそうな時は敢えてちょっと違ったことをしてみるのが常でしたが、やってみるとこれはこれで悪くない。

自分がなにを考えているか、というよりはなにを考えたくないかが行動を通してうかがい知れる。


どうも最近は「分析的思考」をあまり好まないようです。
今までさんざんやってきた反動でしょうか。

…分析的でない文章というのは、昔文章を書くのが苦手だったのを苦にせずまず習得したのが分析的な文章ということで、たぶん不得手なのです。
嫌いではなくて(そういう文章を読むのは好きなので)、不得手というのは、自分が書きたいことを書いていて見えてこない(分析的思考に基づいて論理を進めればそれは自ずと導かれることが多い)ことで、それはあるいは書く達成感がないということかもしれません。

書かないと見えてこないわけではない。
書いてみると「あ、そうなんだ」と思い、それでおしまい。
こういう文章は、今まで僕が書いてきたのとは目的が違うのでしょうね。

その目的を書きながら探すのも妙なものですが…

 × × ×

話を戻しまして、昨日に引き続いて今日もナイトウォークへ行ってきました。

脚絆のせいでもないと思いますが、最近また寒くないですね。
秋の服装で出掛けて途中で汗ばむくらいで、帰ってきたら下駄の台も所々が汗で湿っています。
足裏に汗をかくとすべるので台と足裏とが擦れやすくなって、親指の皮がまた剥がれてきそうです。
左足は一度べろりと剥がれて、ようやく再生しそうだというところなんですが。
冬でこれなんだから、春の日中に歩くと大変そうですね。
足裏の保護はやりようがなさそうなので(絆創膏を貼るだけでも下駄の装着具合がかなり変わってしまう。足袋も少し試しましたがやはり脱げやすくなりそうです)、皮剥け等は我慢ですかね。

そうだ、高野川の下り(東岸)は歩道の上に木が枝を伸ばしていて、落葉樹らしく今は寒々とした枝だけなんですが、そういった木々と白い光の街灯というのはなにかよい相性をもっていて、今日はなぜか木々に桜が咲いているような想像をしました(あの木々は桜なのだろうか?)。
涼しめの静かな夜に桜が見られればいいだろうなと思ったのでしょうか。