human in book bouquet

司書資格を活かせる仕事を探していきます。

疲労の第二十一歩

昨日の疲れでぐったりしていたんですが、今日は日暮れ後に一本歯で歩いてきました。

足に溜まった疲れのせいと、あと今日は体感として今期いちばんの冷え込みだったせいで、終始ふらふらしていました。
ふらふらというのは踏ん張り時に下駄がぐらつくことで、気持ちの問題かなと頭をなるべく空っぽにして立て直そうとしたんですが、身体の疲労は気持ちではどうにもならず(当たり前か)、そのふらふらがまた気持ちに動揺を与えるといった具合でした。
時々しゃっきりしたり、でもそれは長続きせずまたふらふらして、の繰り返しで行程を終えました。

一日中靴で歩いたのは昨日が久しぶりだったので、また歩行の感覚が変わったかもしれないとも思います。
ただこれは外出をすべて一本歯にするわけにはいかないのでどうしようもなく、お互いに歩み寄る(できれば靴が一本歯の方に合わせる形で)しかありません。
靴で一日歩いた日はほぼナイトウォークは諦めねばならず、それよりは日中はおとなしくしていて毎晩一本歯で歩いた方が熟練度も増すだろうという考え方もありますが、自然の中をひたすら歩く楽しさというのも日常的に感じていたいとも思います。
これはもう、どっちに集中させるという話ではなく、その日の勘や気分で選んでいくのがよいのでしょう。
なんにせよ「歩きたいから歩く」というコンセプトを見失ってはいけません。

今日の収穫は、疲れている時はどうしようもないという単純なことを再認識したことですかね。
身体が休息を欲していたら、その日は休むか、無理を押して歩くかのいずれかです(これは道中の話)。

山頭火は生涯放浪していたわけではなく、行乞放浪する時期があったり庵で細々と暮らす時期があったりしたようですが、日記には「歩かざるを得ないので歩く」とあり、空腹はもちろんとは思いますが身体的に苦労をして歩くことも多かったと想像します。
もちろん山頭火のような境地を目指すわけではありませんが(でも彼の旅日記は今の自分にどこか響くところがあり、地名などほとんど分からずとも読み進めることができます)、でも自分についてよく考えてみると、「歩きたいから歩く」のはいざ歩き始める時の心境を表しているわけですが、歩くことを生活の中心におく動機なり因果なりはどこにあるのかといえば、もしかすると僕も「歩かざるを得ないから歩いている」のかもしれません
無理はしたくないのは確かですが、そう言えるのは無理をしないでも不都合がないという環境(境遇といっても、もっと大きく時代といってもいい)がそう言わせるのであって、無理をせざるを得なければ(僕だけでなく誰だって)無理をするのです。

何が言いたいのか書いている自分もわかりませんね。

まあ、修行における無理(つまり強行)は成長や発達を促すかもしれず、あるいは妙な癖をつけたり故障を呼び込んでしまうこともあり得る。
だから一概に無理はよくないとは言えませんが、とりあえず明日体調が崩れていないとよいけれど(さきほど遅めの夕食をとった後から舌が荒れているのです)。

逆に明日しゃきっと元気になっていればまた一日京都歩きに出掛けるかもしれません。