human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

知恩院の古本市、順当の第七歩と新コース続々、乾布なき摩擦、ひさしぶろ

今日は、知恩院大文字山→高野イズミヤというコースでした。
まとめれば一瞬ですが、立つか歩くかを5時間以上していました。

大文字から高野へ行くのもふつうはやらないんですが、流れ着いたという感じで…うん、「常態和歩」に一歩近づいたと言えなくもないですが、きっと明日はダウンでしょうね。
そうと予感しつつプールは行きますが(泳ぐと足の疲れが全身に拡散するのです。ほんとに)。

知恩院の古本市

今朝はどう歩こうかと遅めの朝食*1を食べ終わってから考えて、ふつうに歩くつもりが「よし、一本歯で大文字だ」という気分になり、ただ寒くなってきたのでふつうの街歩き並みの重ね着で出発しました。

百万遍交差点から今出川通を上っていくと、吉岡書店(古本屋)の前にいつもより客が多くいて、ちょっと心がざわつきながらも通りすぎて、知恩院の前にくると「あ、やっぱり!」の古本市をやっていて、開催日程を見ると今日が最終日だったので選択の余地なく寄っていきました。
これから山登りするのだから余計な本は買わないように…と念じて各書店の売り場スペースをのぞいていったんですが、知恩院入口近くの最初に寄ったスペース(三密堂書店)で見つけた『表現の思想』(寺田透)という本だけは買ってしまいました。

f:id:cheechoff:20161103181213j:plain
f:id:cheechoff:20161103181223j:plain

タイトルに惹かれて手に取り、目次を見ると「正法眼蔵」の文字が目に入り(「あっ!」)、そういえば『数学に生きる』(岡潔・森田真生)に岡氏が師事した人(かそのまた師事した人か)で寺田という人のことが書いてあったようなという記憶が浮いてきて(でもその人の名前は二文字だったような気も…)、いやでもちゃんと見極めようと本文を読み始めると、書き出しの数文で「なんだ、保坂和志と同じことを考えているじゃないか」と思ったので買うことにしました*2

 「芸術家の思想」といふ課題が、「人間と芸術」といふ枠の中で与へられるとき、まづとまどふのは、芸術家は他のあらゆる仕事に携はる人間とは別個の思想を持つものと、出題者によって考えられてゐるのかと疑はれるためである
 そんなことはあるまい、出題者がそんなことを考へてゐるはずはない、と考えなほすと、問題は、芸術といふ特殊の表現様式──あるひは人間の持つ唯一の表現様式を通じて現れる思想の特殊性の旧名にあるのであらうか、といふ疑問が今度は湧く。

「芸術家の思想」p.7 (寺田透『表現の思想』現代思潮社

まず読むべき本が今溜まっているので(昨日書いたほかに、左京図書館で借りている『辺境を歩いた人々』(宮本常一)も早々に読まねばなりません)、すぐには読み始められそうにありませんが、『正法眼蔵』を読むうちに手に取りたくなるかもしれません。

各書店の出店スペースはざらっと通して見ましたが買ったのは上の一冊だけで、古本市の奥では知恩院のお堂が開放されていたので入ってみました。

畳敷きの観覧スペースに端座して前方を見やると法然上人像があります。御簾というのか、上から垂れ下がる簾で顔の上半分が隠れているところに奥床しさを感じます。像の前にはいろいろ装飾があり、距離をおいて座布団と木魚が置いてあるので経を唱える場所なのでしょう。その装飾+念仏スペースは少し高くなっていて、天井近くには幾種かの絵(「松と鶴」とか)が彫られた欄間があり、欄間の下(だったか忘れましたが)からそのスペースを囲うように金塗りの装飾具が垂れ下がっています。スペースの内側にはそれより巨大な装飾具が天井から垂れ下がっており、どれも重量があるらしく、空気の流れに対して微動だにしない様が堂内の静けさを醸し出していました*3。また垂れ下がる装飾具より外周には珠の大きな数珠が張り巡らされており(大きさはゴルフボールくらいかな?)、数珠をたどって見回すとお堂の内部を囲うように設けられていたのですが、一つひとつの珠には細かい文字が刻まれていました(遠目なのでどんな字かは全く見えず)。この数珠はお堂を守る結界を、垂れ下がる装飾具は念仏スペースを守る結界を形成しているのだと思いました。

たぶん10分くらい正座しながら堂内の空気を堪能した後、辞去しました。

第七歩@大文字山

思わぬ寄り道をして荷物も増えましたが、気にせず予定通り大文字へ向かいました。

今日は(前々回の教訓もあり)無理をしないでおこうと、ベーシックな火床までの登山道を一本歯で上りました。
この道は3回目でだいぶ慣れてきたようで、速く進めるわけではありませんが(何せ慎重第一)、今までより余裕を残して火床までたどり着けました。
斜面の傾き方向に合わせて歯の向きを(進行方向とは別に)調節する所作も、ことさら意識せずに自然とこなせつつあります。
踏み込み時に歯が傾いて足首をひねる一歩手前までいく「踏み込みズレ」は回数も危険度も減ったようで、一歩手前の瞬間に反射的にリカバリーする能力が向上しているかもしれません。

火床に到着し、余裕があれば下りも一本歯で…と思ったんですが、人の多さに意気が削がれてしまったので断念して靴に履き替えました*4。ただ違う道を歩こうと思ったので火床から山頂へ向かう道を進み(たぶん初めて通ります)、途中の分岐で下山する道を選びました(第五歩の時に見つけた道)。ここでまだ余裕があったので「新コースを開拓しよう」と分かれ道を見つけたら行った事のない方へ行く、を何度かやったんですが、最初はふつうの下り道だったのがだんだん道なき道になっていきいつの間にか急斜面で木に掴まらないと下れないくらいになってしまって(でも進む)、掴む木がそばになくなった段階でやっと「ここは道じゃないな」と判断して*5元来た道を上り直す、というのをやり、その後は順当に進んだんですが分岐はいくつもあって(5箇所はありました)、あんまり遠い登山口に出るのも面倒だから方角的には銀閣寺裏の登山口に近くなるような道を選んでいたら、意外にも別の登山口でなく元の登山道に戻ることができました。

今日の道もなかなか一本歯ではきつそうですが第五歩のコースを登れたのならいけないことはないという感触があったので、今後の候補に入れておきましょう。
そして今日の下山で新コースがまだまだ沢山あることが分かったので、靴なら全然平気なのでまた新コース開拓をしたいと思います。
分岐はカメラで記録した方がいいかな…次の時に覚えていれば持っていきましょう。

vsとんび第三戦

下山して、飯時なのでどこか店に入ろうと白川通を北に歩いていたのですがめぼしい所が見つからず、御蔭通に入って西に進み、東大路通まで出たところで「ん、ここまで来ればもう高野に行けばいいんでは」と思い、足はまだ大丈夫だったのでカナートそばのイズミヤへ行って昨日も行ったパン屋で昼食として3つ(もちもちピザパン、栗クリームぱん、ソーセージパン)買いました。

結局今日も高野川で「歩き食べ」になり、さてどれから食べようかと3つのパンの味の濃さ比較をし(薄味のものから食べれば間違いがない)、どれも濃いしよくわからんとピザパンから食べ始めたところで上空を旋回するとんびが4匹いて、1匹の進路を眺めているだけでは危険なのできょろきょろしながら歩いていたんですが、大体みんな離れていったかなとちょっと一息ついた瞬間に真後ろから滑空してきたとんび氏に(半分食べ残った)ピザパンを強奪されました(またしてもピザパン!しかも焼きたての!!)。

第一戦では横から取られたので体に近いところでパンを持つよう注意していたんですが、体の正面から少し右に寄っていたようで(体からはみ出てたかな?)、翼どころかたぶん胴体を右腕にぶつけながらかっさらう様はまさに「強奪」で、この時「その気になったら人間の目玉を抉り取るくらいわけもないんじゃないの」と思って震えました。

しかし一瞬気を抜いたとはいえ気配を感じる注意は怠らなかったはずなんですが、もう今回の完敗*6で「来る気配を察してかわす」のは不可能だと思い知らされました。
なんだかせわしないですが、「注意してるよアピール」としてきょろきょろし続けるしか対策はないようですね。

「いや、そもそも河川敷でパン食べなけりゃいいんでは」ですって?
そ、そんなバカな(震)

プール…

帰宅後、この記事を書き始め、途中で時間になったので泳ごうとスポーツクラブに行ったら今日は休みでした。

泳ぐ気満々でいた勢いが余ってしまったので、部屋に戻ってしばらくうずうずして、「久しぶりに湯船につかりたいし銭湯に行こうかな…でも帰って来る時に体冷えそうやな」と思い、部屋に風呂桶があることを思い出して(シャワーをスポーツクラブで済ませていて部屋の浴室をほとんど使わないので失念していたのです)、家で湯を張ることにしました。

余った勢いは風呂掃除に使いました(2時間弱)。
その間NHKラジオでは「吹奏楽ざんまい」という番組をやっていて、途中でドラクエの曲がかかったりして(序曲→ラーミア→戦闘曲→アレフガルド→バラモス、だったかな?いやあ懐かしかった)、「激落ち君」で床タイルを地道に磨く間も耳は楽しかったです。

うーん、今日は体動かし過ぎな気がしますが、明日大丈夫かな?

*1:朝食はいつも大体10時頃。クラシックかラジオ(FM京都89.4かNHK京都?82.8のどちらか)を聞きながら食べます。今日はNHKで中高生のN響コンクール(合唱)をやっていました。ラジオをつけたらちょうど生徒とMIWAというアーティスト(中学部の課題曲を彼女が作曲したのだそうです)が一緒に「旅立ちの日に」を唱っているところで、懐かしいなと思ってそのままずっと聞いていました(高一の時に唱ったのだったかな?)。アマチュア合唱は好きですね、技巧よりも情熱が前面に出る感じはプロにはありません。ただ高校の部は自由曲が暗い曲ばかりでした。全国大会だとそうなっちゃうんですかね…

*2:ちなみにこの本は「限定壱千部」らしく、裏表紙近くのページには「19」の印があります。¥200均一で買いましたが、1963年印刷当時の値段は弐千円。掘り出し物っぽいですが、まあ価値は中身次第ですね。

*3:天井から垂れ下がっている物体は床近くまで届いていたのでとても長く、これだけ長ければ先端は揺れるだろうとじーっと凝視していたんですが、見る距離が離れていたとはいえ全く動いていないように見えました。ホテルのシャンデリアでもよく見ると揺れているもので、この静止具合は日常的に観察されないものだったので驚いたというか、その場の空気もあり荘厳な感じがしました。

*4:そういえば「子どもが幼稚園で一本下駄履いてるんですよー」と話しかけてきた家族連れの奥さんがいました。今は紐付きだけど後々外して履くようになるのだとか(紐付き一本歯の絵が想像できませんが…)。なんと先進的な幼稚園!園長が甲野善紀氏のファンだったりして。

*5:この判断が常識よりもだいぶ遅いのが迷い癖を持つ僕の欠点で(一人じゃなけりゃこんな無理はしませんが…なんて言ってこんなことを一人の時にするからこそ危険なんですが)、神奈川にいた頃に友人と早戸大滝へ行った時には本当に遭難というか斜面から川に転げ落ちる寸前の状態に陥って死を連想したことがあります。あのときは二人で歩いていたはずがいつの間にかはぐれ、道も岩場で分かりにくくて来た道がどれか分からなくなって、なんとなく近道っぽい道を進んでいたらいつのまにか木につかまらないとまともに立てない"もろもろ"の土の急斜面(そしてそんな木は近くに見当たらない)に這々の体でしがみついている自分に気付き、見える範囲に人はいない(道がないんだから当然)し斜面の先には川があるしで、丹沢の奥深い森にいて駐車スペースまで戻るにもけっこう距離があるから体力温存なんて発想は焼却廃棄して泥酔していても(もちろんしてるわけありません。喩えです)一瞬で素に戻る「火事場の馬鹿力モード」が発動して九死に一生を得たのでした。あの経験のおかげで「無茶判定」がだいぶ常識側に修正されました。

*6:タイトルは元は「完膚なきまでの敗北」ですがそちらでも間違いはなくて、例えばとんび氏の強奪タックルは僕ととんび氏の間の「乾布を用いない摩擦」であります。「りんごでない物体」みたいな話ですね。