human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

『数学する人生』を読んで

『数学する人生』(岡潔、森田真生)を読了しました。
自分の生活に影響を与える(というか「指針となる」)所を引いておきます。

 人は[前段で小説と夢を例に挙げて]こうして、心の様々な位置に身を置くことができるのです。この位置を指して「自分」という。人本然の生き方において、自分といえば、現在心を集中しているその場所のことをいうのです。
 道元禅師は「本来の面目」と題して次のような歌を詠んでいます。

  春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりけり

 花を見ているときは花になって花を見、ほととぎすを聞くときにはほととぎすになってほととぎすを聞き、月を見るときは月になって月を見、雪を見るときは雪になって雪を見る。これが、人と大自然との一番普通なつながりで、人はこういうことができるのです。(…)
 自分というものは、時と場合によってあるにはあるが、時と場合によって位置を変える。固定されていない。このことを仏教では「諸法無我」といいます。

一 最終講義 p.41-42

ちょうど昨日電車に乗っている間に読んでいた保坂氏の本には、こんな一節がありました。

 地上三十四階ぐらいのビルでは景色を楽しんでいられるけれど、十階前後のビルにいると突然いても立ってもいられないくらい怖くなることがある。
 一度目はマンションの十階(だったかな)に住んでいる友人のところに訪ねていったときのことで、そこの通路は開放型で、胸の高さくらいのコンクリートの囲いを隔てて外に素通しになっている。十階を吹く風が顔に当たって、それだけでもすでにじゅうぶんに感じ悪かったところに、隣の棟の同じフロアの通路を私と同じように歩いている人が見えて、その途端に自分がいまいる場所の高さが実感されて、もう膝がふにゃふにゃと折れそうになった。(…)
 目の見える人間にとって自己像が鏡像によってもたらされた部分は少なくなく、自分と同じことをしている人間が見えることも鏡像と同質の役割を持つことは私の”十階体験”が語っている。私が怖さを感じるのは高い所だけだが、都市という空間ではフィードバックされることによって初めて自覚される種類の恐怖があちこちにあるんじゃないかと思う。視線のフィードバックによる自己像の生成のサイクルから抜け出せなくなって、マイクがキィィィーーーン!という音を立てるように、自己像がハウリングを起こすのだ。海や山にいれば、視線は遠くまで延びていくことができるけれど、都市ではすぐに遮断されてしまう。

「高所恐怖症と自己像」p.146-148 (保坂和志『人生を感じる時間』)

人は自分が見ている(聞いている)対象になることができる。
または、人は自分が見ている(聞いている)対象が経験することを経験できる。

岡氏は直接こうは書いていませんが、ニュアンスとして、このことは本来「なることができる」のではなく「ならざるをえない(自然にそうなる)」と言っているように読めます。

交通量の多い道路や騒音の絶えない繁華街ではヘッドフォンで耳を塞いで歩く人がいますが、あれは「うるさいのがいや」という表面的なものではなく(ヘッドフォンの音楽だって十分うるさいはずで、騒音はそれ同士で相殺できるものではないのだけどどこかそう思ってしまうところがある)、「自分が聞いている対象になる」という作用を抑制するためではないか。
電車の中では車内が静かであるにもかかわらず、ヘッドフォンから漏れた音が外に聞こえるほどの大音量で聞いている人がいますが、これも同じなのでしょう。そうやって自分を外から遮断する人をあまり目にしたくないのも、「自ら進んで鈍感になっている人」の感覚(岡氏の言葉を借りれば「情緒」でしょうか)を経験したくないからでしょう*1

人の密集した所では他人の振る舞いにいちいち構わなくなるのは当然で(「人工ベースの自然」ですね)、このことは個人の心構えではなく生活環境の問題ですが、僕が暮らしたいと思う静かな所というのは、努力などしないでも自然と「自分が見ている対象になる」ことを促すような環境のことです

今は努力しないとそうなれない街中に住んでいて、でもその努力はやかましい場所で無理をすることではなく、静かなところに足しげく通うことを心掛けるものです。

 外的状況があると、心が同化してその彩りになる。これが情緒です。つまり、情緒という形で外的状況の影が映る。ところで、外的状況は複雑で、その中には大切なものもあれば、そうでないものもある。(…)
 人は外界そのものがどんなものであるかは決してわからないが、その像だけは見られるのですが、この像を見るには大脳前頭葉を遣います。ここへ像をはっきり映そうと思えば、水に月の影を映そう思うのと同じで、水を静かにしておかないといけません。かき回してはいけない。つまり、自我を押し通すということをやめないといけないのです。そしてはっきり影を映して見る。これを「見とめ聞きとめる」といいます。芭蕉の言葉です。芭蕉は俳句の詠みはじめに、このことを教えている。「散る花、鳴く鳥、見とめ聞きとめざれば、留まることなし」。

同上 p.43-44

 ものには生の一面と、死の一面とがあります。いつかは必ず死ぬというのが死。他方、生まれたり滅したりしない、不生不滅というのが生です。この「生」を知りたければ、右の内耳に関心を集めることです。(…)
 とにかく、余計なことをする前に、右の内耳に関心を集めて、聞こゆるを聞き、見ゆるを聞くこと。これをやりなさい。精神集中が、やがて努力感のない精神統一になりますから。「関心を集める」とはそういうことです。はじめは非常に重量的な精神集中をやる。そうすると、やがて深い精神統一へ入る。
 だんだん上手になっていきますから、右の内耳に関心を集めて、自然の調べを聞いてみたらよろしい。蛙の鳴き声でも調べはあります。自動車の爆音には一向にありませんが。風のそよぎ、小川のせせらぎ、みなこうして聞いたらよい。そのうちに関心が集まってきます。目を閉じたり、開いたり。見るということをしないように。見るというのをやったら意識を通しますそい、ただちに死へと逆戻りです。
 右の内耳に関心を集めると、情緒がわかるのです。やってごらんなさい。ぼくはそれを自分でやってみて、それでいっているのですから。七十一年かかってね

同上 p.45-46

本書を読んでいて芭蕉にも興味が湧きましたが、道元の『正法眼蔵』は一度読んでみたいと思いました。
本書中でいくつも抜粋があって、岡氏の注釈がなければほとんど何を言っているのかわからないのですが、それを音読すると何かがスッと中に入ってくる心地がしました。

意味はよくわからないが、声に出して読めば「読める」のだろう、という気がしています。

*1:ただ、その人を見ないようにすることはまた自分も鈍感になることでもあって、結局のところ人の密集する空間では「逃げ道」がありません。鈍感ではない、でも人に簡単には乱されない芯の太い感性を持っていればいいのでしょうが。