human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

思考の再編成、賀茂川ウォーク、和歩の「歩き食べ」

昨日は午後からぐったりし始めて、けっきょく一日安静にしていました。

一昨日の「府立図書館&Veloce行程」と「高野川ナイトウォーク」を組み合わて無理をしたのが原因かな、と常識的には思うんですが、もしかしてというか「そういう生活思想に今則っている」がゆえにそうなったのだとしたらまんざらでもないという解釈があって、それは「Veloceで大福を食べたこと」。

つまり、少し前に食事時にウチダ氏ブログを読んでいて*1、「執筆前にはいつも大福を食べている」とか「フランスでの語学研修中は食べられなくて大福欠乏症になっていた」とか書いてあって、お気楽日記(ウチダ氏ブログにもそういう時期はあったのです)のそういう箇所に何度か遭遇するうちになんだか急に大福を食べたくなって、そういえば棋士でも対局中にやたら糖分摂る人いるよなあと思い*2、日中部屋で読書する時に食べりゃええがなと思って大福を買うようになったのですが、その頻度が高まるとスーパーでの「大福の袋買い」に走るのは自然な過程で、そうやって賞味期限3日先の5個入り大福を買って帰り、落ち着いて考えると「今日から3日間は毎日1,2個食わねばならん」というノルマ感が発生していることに気付いて後悔(だって元々「食べたい時に食べる」と思ったところからスタートしたのだから)したがそれはさておき、その翌日(つまり昨日)の日中は外に出るにもかかわらず「行動食ということで」とラップにくるんだ大福2個を携帯し、お茶請けとして存在感を発揮する大福は「コーヒー(←無糖ブラックがベスト)請け」としても同等の機能を有することを鑑みるまでもなくVeloceで食されることが運命づけられていたのですが、運良く2階席に座れたとはいえ持ち込み禁止だから悠然と味わうことは心理的に不可能で*3、1個を二口でバクバクッと忙しなく食べてコーヒーで喉の奥に流し込んだ、その「忙しなさと無神経さ」によって体調が崩れたのかもしれない。

「メンタルが弱い」という視点もあるでしょうが(まあこちらが常識)、僕としては「身体が望まないことをやるとそれが体調に表れる」(上の推論がその通りだとすればそういうことになります)という現象の方に価値を置きたいと思います。
こんなにひ弱ではとても社会でやっていけない、という一面は裏返せば、「その環境が自分に合うかどうかを身体が判断してくれる」とも言えます。
脳の判断には間違いが起こりうるが身体の判断には間違いが起こりえない、というのは、身体の判断には正解も不正解もないからで、そして身体の判断の積み重ねは、脳の判断の基盤を形成していく(あるいは、作り変えていく)。

健全な身体性をベースに思考回路を再編成していく
今の僕の生活思想の一つは、これかもしれません。
(「かもしれない」のは、今書きながらこの一文を導き出したところだからです)


昨日の話に戻りますが、夕方から発熱してきたようなのでポカリをひたすら飲みながら読書していました。
その夕方から夜の間に1.5Lペットを2本飲みました。
汗はほとんどかかずにそのまま流れていってしまった感じでしたが、厚着して布団にくるまっていればだらだら汗をかいてもっと早く熱がひいたのかもしれませんが、仕事をしていた頃の「週末風邪の強制的回復法」を彷彿とさせたので今回はそれはやめておきました。
次に発熱した時にそちらもやってみて、病後の経過を比較してみ…るかもしれません。
しないかもしれません。

 × × ×

今朝起きると体調は上向きになっており、だるい感じは残っていましたが歩くうちに元気になるだろうと外出することにしました*4

一昨日の高野川ナイトウォークで、高野川は鴨川デルタから上流に向かうとわりとすぐ河川敷の道が終わってしまうからあまり長時間は歩けんなあと思ったところだったんですが、よく考えればデルタからは高野川だけでなく賀茂川もあるじゃないかと気付き(もちろん下っても長い道のりはあるんですが、そっちは夜も人が多いのです)、一本歯で歩く前に一度日中歩いて下見せねばということで今日は病み上がりのリハビリを兼ねて行ってきました。

上りは鴨川公園からスタートして上賀茂橋まで行きました。西側の河川敷は石畳か地肌のどちらかで、地肌は高野川と比べると凹凸が大きかったです(道が広いのは関係あるか分かりませんが、人がよく通る、特に自転車がよく通るのか道に「通り溝」(御所だと砂利道の中で人がよく通る部分だけ砂利が掃けていますが、あれと形成原理は同じですね)ができていて、さらに雨が降った時にその溝が際立つように観察されました。水はけもあまりよくないのかもしれません。この溝による凹凸と、あとは道によって乾いた砂の部分と柔らかい土の部分があったりして、高野川河川敷よりは神経を遣って歩く必要があります。川自体が広くて空も開けているので、月が出ていれば夜でもふつうに歩けそうです。日中歩いたので照明(街灯)の具合を確認するのを忘れましたが、河川敷の敷地が広い西側はすぐそばを車道が走っているので空が曇っていても街灯で十分明るいかもしれません。その分だけというか、全体的にひっそりした高野川河川敷よりは夜も人が多そうな感じはしました。とりあえず今週一度行ってみましょう。


上賀茂橋まで上って、さてどうしようかと土手を上がって東側に渡ると、周辺地図がありました*5。その地図によれば北大路橋(上賀茂橋から一つ下った橋)の近くに「北大路タウン」なる商業集合施設があったので、買い物がてら行くことにしました。

買い物といってもスーパーなんですが、今日の昼食やら食材やらを買って、帰りは昼食(コロッケ2個とチキン南蛮バーガー)を食べながら北大路橋に戻って東側の河川敷を下りました。この「食べ歩き」*6は京都に来てからわりとやる頻度が高くなったんですが、どうも外食という時に店に入るよりもこちらの方が落ち着いて食べられるようです。

実は和歩は「歩きながら落ち着いて食べられる」のも特徴の一つで、手の振りを歩行動作に使っていないことと身体を上下させないことがそれぞれ食事動作の安定確保と嚥下消化器官の負担軽減に寄与しています。こうやって「歩き食べ」をしている時にいつも思い浮かぶのが二宮金次郎像で、前に書いた時の繰り返しになるかもですが、歩きながら本を本格的に読むという事実(伝説?)はまさに上に書いた2つを満たした歩き方の存在を示唆していて、彼に倣えば「歩き食べ」をしても身体にとっては全然平気なのですね(むしろ消化が促進される?)。あ、そういえば村上朝日堂のエッセイに、ハルキ氏の担当編集者だったかカメラマンだったかで「フルマラソンをしながらやたらめったら食っている人」がいるという話がありましたが、ハルキ氏は「よく食えるなと思う」と遠ざけて書いていましたが今の僕には少しだけ(うん、少しだけ)その人の気持ちが分かる気がします。

話を戻せば、買った昼食を北大路橋から河川敷に下りるところで食べ始めて鴨川公園でもまだ食べ続けていたんですが、それだけゆーっくりと、一口ごとによく噛んで食べているのでのんびりしたものだし、体に負担もかかりません。ちなみにとんびは「ぴーひゅるるる」と鳴いて旋回するのもいれば木のてっぺん付近の枝に数羽集まって通行人をじーっと見つめるのもいましたが、コロッケもチキン南蛮バーガーも無事でした。賀茂川の東側には土手を上がったところにも歩道(石がごろごろしていて河川敷よりは歩きにくいですが)があって、その歩道のすぐ横には木が並立しているのでとんび的には獲物を狙いにくい道なのでしょう。ここなら常勝(不戦勝ですけど)ですね*7

帰ってきて、大福を食べ生姜紅茶やら牛乳やらを飲みながらこれを書いているうちにそこそこ元気が出てきたので、今日は2日ぶりにプールへ行こうと思います。
無理はせず、フリーコースが混んできたらウォーキングコースへ行くこと。
そうそう、水中歩きの話もまた書きたいですね。

 × × ×

上で「フルマラソンしながら食べる人」の話に触れましたが、読んだのはわりと最近かなと思って探してみるとする見つかったので抜粋しておきます。引っ越し前にまだ読中だったのだけど、引っ越しのごたごたがあってそのまま放り出していました。ちょうど昨日の発熱中にハルキ氏の短編集(『神の子どもたちはみな踊る』)を読み終えたところなので、エッセイの続きを読むことにしましょう。
ちなみに抜粋中のこの人のことを別の箇所で「カメラのMくん(以下、エイゾーと呼ぶ)」と書いてあったのでやっぱりカメラマンでした。エイゾーって名前っぽいけどMじゃないし、やっぱり「映像」ですかね。いや、「EIZO」かもしれんな。

 エイゾーは食べ物のサプライが豊富なことで、このレース[千葉県の館山若潮マラソン]を気に入っている。この人はなにしろ甘いものを食べながらじゃないと長距離をまともに走れないという特殊な体質で、とにかく初めから終わりまで口を動かしている。今回のレースでは給水所に置いてあったクリームパンを七個と、バナナを三本食べた。すごいですねえ。おまけにドロップを両手にいっぱい持って走り、いつもぺろぺろとなめている。走りながらよくそんなにものが食べられるものだと僕なんかは深く感心してしまうのだが、エイゾーに言わせれば、食べない僕の方が逆におかしいんだそうで、「ハルキさん、なんにも食べないでよくそんなに走れますね。それって異常ですよ」といつも感心される。

「梅竹下ランナーズ・クラブ通信2」p.115-116(村上春樹『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』新潮文庫

うーん、エイゾー氏の走法が気になりますね。

僕は(もちろんランナーと呼べるほど走っちゃいませんが)走ると腹痛を起こしやすい体質で、社会人になってからフォームを矯正して(つまり学校の体育ではよく腹痛を起こしていたということですが)胴体が上下しないように蹴りやら着地やらを工夫するようになってやっとまともにランニングができるようになったので…上では嘘つきました、全く共感できませんね。はい。

*1:と言っても先週後半くらいから保坂氏のエッセイを読んでいます。「遠い触覚」というエッセイで、「主題=デイヴィッド・リンチ映画」はありつつ行き当たりばったりの横道それ放題の文章を読んでいて、その横道一つひとつに興味をそそられることが思想的生活(思想空間における生活性。「生活的思想」とは違う)なのかなあと思ったりしています。忙しい人向けではないですが…第1回のリンクを張っておきます。

*2:『三月のライオン』(羽海野チカ)の中の話ですが、紅茶に角砂糖どぼどぼ落として飲む人とか、対局前に缶お汁粉5,6杯平らげる人とか、いますよね。

*3:神奈川でVeloceに毎週土曜通っていた時に、膝の上に乗せた鞄の中に忍ばせた「おかき」をバリバリ食べるおばさんと何度か(記憶をたどるに5回以上)隣席したことがあって、そのたび内心イヤな顔をしていた自分を裏切ることになるからです。という言い方は正確ではなくて、ミラーニューロンみたいな話ですけど、横で「隠れ食い」されると自分も同じ事をやっている気分になってくるのですね。同時にそのおばさんの無神経さ、身体感度の低調さも感染する。だからVeloceでの隠れ食いは(ルール違反がよくないのとは別の次元で、その行為に含まれる身体記憶として)今の自分の生活思想に反していて、理由がなければまずやらないんですが「大福ノルマ」が発生したためにやってしまったというわけです。別に大福のせいにしたいわけじゃないですが…

*4:ただ体が冷えるとよくないと思い、でも暑くなるのも困るかと思って「薄手の重ね着」をしていきました。上着は下から半袖肌着、長袖Tシャツ、柄もののブラウス、最近ユニクロで購入した僕としては冒険的な青のベスト、着古したグレイのジャンパ、の5枚! 枚数だけ数えるとゴワゴワしてきそうですが(何が?)、全部薄いのでこれで丁度よい感じでした(歩き始めは少々寒く感じ、ピーク時にジャンパを脱いで丁度良くなる。

*5:「鴨川の野鳥観察チェックリスト」なるものも掲示してあって、手書きの絵がたくさん添えてありました。例によって挿絵の鳥の名前が今全然思い出せませんが(神奈川にいた時によく見かけて調べたハクセキレイだけ)、賀茂川には確かにたくさんの種類の鳥がいるので、また見に行ってみようと思います。なんとなくそのリスト、ネットに落ちてそうな気がしましたが。

*6:食堂街の出店通りやお祭りでやるようなガヤガヤした感じではなく、河川敷や人通りの少ない道でのんびり歩きながら食べる方で、「歩き食べ」とでも言えばいいでしょうか。「食べ歩き」こそのんびりやるもんだと思われそうですが、人混みが苦手な人にとってはそういう空間にいること自体がのんびりできないのです。

*7:とんびに負けた時の話はこちら