human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

『寓話』を読もう、鉄の定食屋、和歩の瞬発力、入口の第六歩

今日は、前と同じく京都府図書館に寄り道してから烏丸蛸薬師のVeloceに行きました。

今日のコースは大人しくというかまっとうに、鴨川の河川敷を二条通まで南へ下ってから道路に出て左折しました。
図書館では今借りている途中の本があったので、今日は2階に行って新聞を閲覧。
朝日を3日分読みましたが、ほんとうに「ののちゃん」しか読むところがない。
北梅田とか大阪万博の話がありましたね。へえという感じですがカジノはありえん。「入場者数確保のため24時間入場可能な施設を設ける予定」ってまさか…はあ。
てな調子で盛り下がったので、やっぱり地下の開架へも行きました。
今日は検索端末で読みたい本を探してみようと、「小島信夫」を検索してみました。

この人の本は読んだことがないんですが、保坂和志のエッセイでたびたび出てきて一度読んでみたいとずっと思っていて、BookOffOnlineでウィッシュリスト著作をいくつか登録してたりするんですが、在庫が入荷した時にメールが届くように設定していてでもそのメールを確認してHPにアクセスするといつも在庫がなくなっているので熱心な読者がいるんだろうなとも思っていました。
保坂氏のエッセイに「小島氏の小説を(絶版が多いので)今の人に読んでもらいたくて個人出版をした」みたいなことが書いてあって、それはたしか08年くらいのエッセイだと思うんですが、その個人出版をした小島氏の著作は『寓話』というタイトルで、図書館なら絶版になった本もあるだろうと思ってとりあえず「小島信夫」で検索したところ、なんと今年の出版で当の小説がヒットしたのでした。
出版社でさっきネット検索してみたところ、去年が小島氏の生誕100年、今年が没後10年だということで氏の著作集を刊行したとのことでした。なんというタイミング!

blog 水声社 » Blog Archive » 《小島信夫長篇集成》(全10巻)刊行開始!

図書館には上記サイトに紹介のある長篇と短篇の巻が全部そろっていて、『寓話』の巻の目次を見たら保坂氏が解説を書いている!
小島氏の本を読むなら『寓話』からだなと思い、でも今借りている本を読み終えるのが先かと思って今日借りるのはやめておいたんですが、フライングしてその場で少しだけ本文を読んでみました。

……。

とりあえず思ったのは、「すごく集中して読む必要がある」ということでした。
今の生活ぶり(読むペースが1週間に1冊以下)だと2週間で読み切れそうにないので、返却期限延長を前提として4週間でなんとか読み終えたいと思います。
ちなみに今借りているのは岡潔氏の本(編纂は若き独立数学者、森田真生氏。森田氏は内田樹氏と面識があるようです)。

数学する人生

数学する人生

図書館を出てからは二条通を戻ってそのまま橋を渡り、木屋町通に入って御池通で西に折れ、寺町商店街に入って三条通まで行ってから西に曲がって烏丸まで、というコースでした。
途中でご飯を食べようときょろきょろしながら歩いてたんですが、三条通はハイソな店が多くてとてもとても…という感じだったんですが、烏丸に出る手前で定食屋を見つけた(ラーメン屋しかないかなあ…という頭だったので定食屋の看板を見たので一度素通りしましたが、そこで後戻りしたのはいつもずんずん歩き去る僕にしては珍しい)ので入ってみました。

ランチは好きなメインおかずを二品選べて、ご飯、味噌汁、キャベツのサラダ、漬け物がついて850円でした(ご飯はおかわり自由)。おかずの量はそれほど多くないんですが(今日食べたのは「鶏唐の黒胡椒タレ」と「揚げナス」だったかな。10品以上の中から選べます)、控えめな盛り方に調和した丁寧な味付けで、店の雰囲気も落ち着いていた(コの字型のカウンターと座敷タイプのテーブル席があります。入ったのが14時過ぎだったのですいてました)ので讀賣新聞を読みながらゆっくり食べました。

「Veloceに行く日の行きつけ」ってのもいいなあ、と思いました(行きつけといっても週一ですが)。
店の名前は…「鉄」がついてたんですけど、何だったかな。「鉄屋」? メシ屋の名前じゃないですよね…。

Veloceでは前回に高村薫の社会批評本を読み終えたので今日から保坂氏のエッセイ(『人生を感じる時間』)。吹抜けの二階席に座れたので長居できました。このペースなら次回に読了できそうです。


帰りは烏丸通御池通まで行って右折して最初の通り(なんだっけな…)に入って御所まで北進。御所の中では(砂利道ではなく)烏丸通そばで通りに平行な道をずっと進んだんですが、電灯のない道だったので足場がほぼ見えていませんでした。うっすら見た目と足裏の感覚で砂地かコンクリートだと分かっていたので特に警戒せずに歩いていたんですが、昨日の雨で残った水たまりがありました。

歩いていてちょうどその水たまりに、それと知らず右足を踏み下ろしてしまったんですが、右足の靴の裏が水面に触れた瞬間に左足が踏ん張られて跳躍し、着水が回避されたのでした

というこの一文の間は、水たまりの存在に気付いた瞬間(上の瞬間と一緒)に「おっ」と声を発しただけであとは何も考えずに反射的に実行された(ので受け身的に書いてます)んですが、自分でこの反射に驚いたのは、昔に同じような場面に遭遇した時にはこのようには動けなかったことを記憶していた(というかその記憶がこの瞬間に甦った)からでした。
その昔の対応というのは、今回と同じ状況を想定すると、右足が水面に触れて水たまりに気付いた瞬間に、左足はもう「次に右足を踏み込むモード=徐々に左足の踏ん張りを弱める体勢」から変更できず右足を慌てて浮かせて水たまりのない所まで持って行く、というもの。

つまり今日の反応において、右足の察知に即応して左足が瞬間的にモードを変更できた(つまり、最初に踏み込み量を決定して意識が右足に移行しながらも再度踏み込み量を修正できた)点が以前と比較して変化したところです
「以前」はいつなのかというと、論理的に考えれば「西洋歩きをしていた頃」になります。

細かい説明が難しいのであっさり書きますが、西洋歩きは(和歩と比較しての相対的な話ですが)身体の局所的な使用と遠心力の利用があるために急激な状況変化に対応しづらい、ということだと思います。

この「水たまり回避反応」に、自分で構築してきた和歩という歩き方の一つのアウトプットを見たのでした。

 × × ×

ここからが本題のはずだったんですが、上で書き過ぎ(て疲れ)たので以下はあっさりと。
帰宅後に余力があり、またプールに行く時間をちょっと外れていたので、高野川ナイトウォークに行きました。
一本歯で高野川河川敷を歩くのは二回目になります。
今回は大文字山での苦難を乗り越えた後ということで余裕があって、高野橋(北大路通)のもう一つ北(北東)にある橋まで上ることができましたが、途中でトイレに行きたくなったので下りはカナート洛北までとしました。
体力的には出町まで戻れましたが、集中力の低下は一本歯にとって命取りなので無理はしませんでした。

河川敷は勾配は多少ありますがまあ平地と言ってよく、一本歯修養においては「基本コース」という位置付けです。
遍路道中でもいちばん長時間歩く地形のはずなので、山を登るよりはこちらに多くの時間を割くべきではあります。
それで色々考えながら、また試しながら歩いていたんですが、言葉にできそうなことはあまり多くありません。
何か感覚をつかむまで何度か歩いた方がよいようです。

敢えて一ついえば、身体各部の細かい動きの調節もまだいるのでしょうがそれだけではなく、歩き方の全体的なイメージ(比喩)をもつことも大事な気がしています。
具体的にどうと言われてもわかりませんが、たとえば内田樹氏がブログで書いていた、合気道の稽古で「軒下から手を伸ばして雨の具合を確かめる」という比喩を弟子に伝えたら手のひらの感度がぐんと上がった、というような(これは局所的な身体部位の例ですが)。

「どういう問題を設定すべきか」の入口に立った、という感じですかね。
何が分からないかが分からないが、何かが分からないことは分かる。
その「何か」とは何か?

…身体に耳を傾けてみましょうか。

 しかし、「まったく知らないもの」「理解の届かないもの」とは、じつは私たちの身体それ自身のことなのではないか。言葉は<死>を語る(思考する)ことができないだけではなくて、生きている状態も私たち自身の身体も語る(思考する)ことができない。なぜなら、そのどれもが言葉の記号性におさまるようなものではないのだから。
 しかし、身体それ自身は思考している。思考を「言葉による思考」と限定して考えなければ、身体それ自身はあらゆる場面のあらゆる行為において思考している

「<死>を語るということ」p.134-135(保坂和志『人生を感じる時間』草思社文庫)