human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

プール習慣再考、京都歩きと公共的読書、憲法のこと

昨日はプールの後、夕飯を食べている間から疲労が増してきて、後片付けする元気もなくばったり倒れ、翌日の昼まで寝ていました。
疲れが溜まっていたようですが、生活リズムに再考の余地があります(オフが週一だとしんどいのかな。高校生以来ずっと週休二日生活だったので、それをやるには少なくとも適応までに時間がかかるのでしょう)。

プールの後に夕食というのも実は無理があって、スポーツクラブのスケジュール上、夕方以降に使えるのは19時前になって、そこから2時間泳いでサウナで汗を流してとやっているといくら家のすぐ近くとはいえ夕飯の支度開始が22時をまわり、おかずを食べながらゆっくり作るので食卓につくのは遅いと23時にもなります。
そういう遅めの夕食に合わせて朝食と昼食の時間も後ろにしていたんですが、夕食後に起き続ける体力が切れると満腹のまま就寝することになり、それは身体にとってあまりよろしくないとここ二日ほど感じていました。

プールの前に夕食を済ませると泳いでいる間に腹の調子がおかしくなりそう、という判断が最初にあって上記のような生活リズムを構築してみたのですが、こちら(=プール前に軽めに夕食)も一度試してみてもよい気がします。
あるいはプール後の夕食を超即席型にするか、ですかね(家での昼食が卵入りレトルトカレー+αなので、これを夕食にする手があります)。

とりあえず、よほど行きたいと思わなければ今日と明日はプールをお休みにしましょう。

これまでは「(泳げば勝手に元気になるので)隙あらばプールへ行く」という方針だったんですが、昨日は週末でプールが混んでいて自分のペースで泳ぐことができなかったのが今の疲労の主要因と思われます(自分のペースだとクロールも平泳ぎもとても遅い(「遠泳仕様」と言い訳しておきます。まあこれ以外の泳法ができないのですが…)ので、ストレス発散を目論む玄人スイマーに囲まれると必死にならざるを得ないのです)。
プールに行かない日は「高野川ナイトウォーク」とすれば毎日夜に体を動かすことができます。

 × × ×

昨日の話。
(引き続き勉強がてら、通りの名前を詳細に書きます)

昨日は府立中央図書館へ行ってきました。
家からまずは鴨川に出て、二条通まで行くつもりが途中で曲がりたくなって河川敷を上がって川沿いに曲がったところが冷泉通で(その川は琵琶湖疏水*1)、冷泉通東大路通まで進んでから南へ曲がり、しばらくして二条通に行き当たって東へ折れれば、みやこメッセ*2京都市美術館を始めとする文化施設エリアに至ります。
中央図書館はその一画にあり、入口付近まで来て「ここにも来たことあるなあ」と思い出しました。実は前に住んでいた時に左京図書館には通っていたらしく、先週に訪れて貸し出しカードを作った時に「再発行ですね」と言われてびっくりしたんですが(もちろん「自分の記憶の欠如」に。そのせいでカードを探すための再発行猶予期間が設けられてしまいました)、中央図書館でも同じことにならないかとヒヤヒヤしましたがこちらは初めてだったようです。昨日は朝刊を読むつもりで図書館を訪れたんですが、いざ来てみると書架を巡らないわけにはいかず、1階と地下1階はひととおり眺めて、当然の流れですが早速本を借りました。

借りた本は線が引けないし返却期間があるからじっくり読むなら買うべし、とは思うんですが、借りるより買う方が「しっかり」読めるかといえばそうとも限りません。図書館で本を借りるという行為によって社会(というより、消費活動全般との差異をいうなら「公共」ですね)との接点ができるし、読了までの期限が設定されることで緊張感も生まれます(この緊張感の出所も「公共」です)
というようなことは少なくとも学生の時も、会社で働いている間も意識しませんでした。
学生の間は図書館の意義を「高い本(専門書はだいたい高い)や新しい本(出版日が最近だとbookoffの108円棚には並ばない)がタダで読める」点にしか認めていなかったし、神奈川に住み始めた時に地図を調べて見つけた駅前の市立図書館は通うのを数ヶ月で止めてしまいました。
まあ、今自分が上に書いたことが今の自分にとってどれだけ意味を持つかは、今後の生活を通じてわかっていくことだと思います。

さて、図書館を出ると、図書館前を横切る神宮通を南へ進み、途中で路地に入ってゴニョゴニョ進んで、再び東大路通に出ました。ちょうどごはんどころを探していたところで見つけたラーメン屋に入り(ラーメン屋にしては異例に「おしとやか」なお店でした。さすが祇園)、お腹を満たしたところで四条通をずーっと西へ向かい(相変わらず人混みがすごい。疲労はこのせいですね)、あとはいつものコースで烏丸蛸薬師のveloceへ着きました。

veloceでは夕方まで本を読みました。帰りは烏丸通六角通で東に折れ、高倉通で曲がってからは御所まで北上しました。御所からはまたゴニョゴニョして帰宅し、プールへという案配でした。

歩いた距離よりもやはり人混みで疲れました。
もっと積極的に路地を歩こうと思います。

 × × ×

図書館で借りた本について。
左京図書館では池澤夏樹の、中央図書館では内田樹の本を借りました。
どちらも憲法日本国憲法)についての本です。

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もしかしてブログを10年以上書いてきて*3、「憲法」という言葉を一度も使ったことはないのではないかというくらい縁のない言葉なんですが、それを「けしからん」と思う向きもあるでしょうし、「憲法についてことさら言及しなくても憲法が維持される状況は憲法にとって望ましい」という考え方もあるようです(「あるようです」と書くのは、この考えに触れて納得したのがつい最近のことだからです。このことは写真の、「神戸憲法集会」の講演録であるウチダ氏の本『憲法の「空語」を充たすために』の最初に触れられています)。

憲法に興味を持ったきっかけはウチダ氏のブログなんですが、ブログに限らずウチダ氏が憲法について言及する文章は今まで何度も読んできたはずなので、余裕(「空白」もでありますが)のある今の生活で触れたからこそ、昔にはなかった「突っ込んだ興味」を持ったのだと思います。


池澤氏の本は池澤氏による日本国憲法の翻訳文が主な内容です(憲法を起草したのはアメリカ人なので、憲法の原文は英語です)。
巻末に憲法の原文=英文と日本文(つまり起草から公布に至るまでに日本の法律家が翻訳したもの)が載っています。
おそらく中学か高校の社会で習ったのでしょうが、僕は初めてまともに読む気持ちで日本文を音読しました。
正確には、本書のまえがきを読んでから巻末の日本文を音読し、それから本書の本文(池澤氏の翻訳文)を読み進めました。

本書のあとがきの前の文章(「翻訳について」)の中で、「おっ」と思える箇所がありました。
憲法がこういうものだとすれば、僕にはそれはとても魅力的に映ります。

 憲法というのは法律の中で最も文学的な法だ。飢えてパンを盗んだ者にはどの程度の刑罰がふさわしいかを刑法は問うだろう。しかし、なぜ彼がパンを盗まなければならなかったか、どうすれば国家は飢える者を出さない社会を作れるか、そこを論じるのが憲法
(…)
 法律というもの、その大半は専門家に任せておいていい。例えば、「船舶のトン数の測度に関する法律」の詳細を素人が知る必要はない。けれども、憲法だけは知っておいた方がいい。憲法は抽象的な分だけ日常的なのだ

「翻訳について」p.98,100(池澤夏樹憲法なんて知らないよ──というキミのための「日本の憲法』)

──憲法は文学的な法であり、そして日常的である──

この本を読む時に最初は日本文を音読した、と上に書きましたが、音読していて、「こんなことが書かれていたのか」という驚き(驚きの原因は僕自身の無知にあります)のほかに、「この条項が問題となった(議論となった、あるいは議員や警察などの公務員が違反した)社会事件はあれかな」という連想がいくつかありました。

この連想を浅はかに推し進めると、「これだけ法律違反をしておいてなぜ罰せられないのだろう」と思ってしまうのですが、池澤氏の本とウチダ氏の本(こちらはまだ途中ですが)を読んで、そういうことではないのだと知りました。

憲法は守るべきものだが、「守るのは当たり前」とか「守れなければ日本国民ではない」とかではなく、「守ることを通じて憲法に書いてある国をつくってゆく、日本国民になってゆく」ものである

 国は人が作る。つまり人々の意思で設計できる。最初に国の形をおおよそ決めた上で、上手に運営する。その指針として憲法がある。
(…)
 法則は自然の法則とは違う。自然界ではものは必ず上から下に落ちるし、太陽は東から昇る。だが法律は決めれば自動的に機能するものであない。何を決めても人々がそれを尊重しなければ法律は空っぽの文章にすぎない

あとがき p.111(池澤夏樹憲法なんて知らないよ』集英社

 護憲というのは、あるいは立憲主義というのは、憲法は国の最高法規だから守らなくてはいけないのだ、といった静止的な話ではありません。この最高法規に、それにふさわしい重みや厚みや深みをどのようにして与えていくのか、その力動的な活動が憲法憲法たらしめる
 最高法規にどのようにして実質を込めてゆくのか。それが僕たちに課された実践的課題であると僕は思っています。これは肉体的な日常的な手仕事です憲法が軽んじられているという現実は、僕たちにはその努力がまだまだ足りなかったということを意味しています。

1「日本国民」とは何か p.48(内田樹憲法の「空語」を充たすために』)

どういえばよいのかよく分かりませんが、ウチダ氏が昔のブログでよく論理学的な言明の分類について書いていたことを今連想したのですが、その分類とは「事実認知的言明」(例えば「これはパンである」)と「行為遂行的言明」(「そうだ、京都へ行こう」)の2つで、憲法とはここでいう「行為遂行的言明」なのかなと思いました。
ふつう法律といえば、守る事が正義であり当為であり、実現されるかされないかが法の運用上は問題なのにそれはさておかれて、法文そのものは何やら「事実」の様相を帯びてくるように思われる(つまり、その法の成り立ちや正当性を問う視点がなければ、その法が「不問の前提」に見えてくる。僕は知財部で明細書を書いていた時期がありましたが、知財部にとっての特許法はまさにこれに該当します)。
でも、憲法は、その正当性が自分と関係のないところにあるのではない。
自分の生き方が、日本国民の振る舞いがそのまま、憲法の正当性を裏付けたり、あるいは憲法が「時宜に適っていないもの」にしたりする

この「憲法の正当性を一人ひとりが担保する」という認識は、「行動を法に縛られる」という発想とは全く異なります。


なんだか自分の無知をばんばんさらけ出してしまいましたが、この認識は今の僕には、個人が(仕事を含む)生活の中でどう振る舞うかという具体的な面に過度に囚われず、物事を前向きにとらえる力を与えてくれるように思えます。

憲法が文学的な法であるということは、憲法を実現していくプロセスが創造的になり得るということです。
また、憲法が日常的であり抽象的であるということは、各人がその創造的なプロセスを、自分たちの生活の中で独自に歩む余地があるということです

憲法なんて知らないよ (集英社文庫)

憲法なんて知らないよ (集英社文庫)

*1:森見登美彦の小説によく登場します。簀巻きになって琵琶湖疏水に転がされる大学生がいたり、疏水沿いの夷川発電所では狸が偽電気ブラン醸造していたり。

*2:みやこメッセには一度訪れた覚えがあり、なんだったかしらと記憶をたどれば「例大祭」でした(何の例大祭かはご想像にお任せします)。院生の時に同士2人と共に乗り込んで(といって僕は首を突っ込んだレベルですが…深からぬ知識はズデーデン(←違う)までしかありません)、開場前に並ぶ長蛇の列と会場内の壮絶な人だかりの洗礼を受けたことを覚えています。

*3:書き始めたのは大学1回生の時にサークルで流行っていたからです。当時は本当に「誰もが何かを書いて」いて、ブログは主にコミュニケーションツールとして機能していましたが、今も続けているのはブログに文章を書くことが「性質に合って」いて残った人という感じがします。本ブログと相互リンクを張っているnon氏はその当時のジャズサークルのメンバです。