human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

着実の第二歩/おまけのヒラリー

今日は所用で三条河原町-四条烏丸界隈に行きました。

鴨川沿いを荒神橋まで下って荒神口通りを西へ行き、御所を斜めに(運動場も斜めに)突っ切って丸太町通りに出て、車道の向かいにあった通りに適当に入って(富小路通でした)南へずーっと進み、四条通まで出てから西へ折れて四条烏丸にたどり着きました*1

四条烏丸に行ったのはveloceで読書するためでしたが(6年前もよく通いました)、着いてみると店はなくて、あれーと思いながら烏丸通を北に行くと蛸薬師通との交差点にありました。
よく通ったと言いながら、前も毎回こうやって(つまり四条烏丸まで行ってから烏丸通を戻る、という回り道)通っていたような気がします。
興味がないって恐ろしい…
今回は京都の通りを覚えながら歩き回ろうと思います。

で、烏丸蛸薬師で本を読み、その後三条木屋町で夕食を食べ、三条大橋を渡って鴨川沿いに今出川まで上って帰る、というわりと長い道のりを歩いたんですが、今日はプールへ行かず余力があったので一本歯で外を歩いてみることにしました。

夜は暗くて論外と前に書いたところですが、暗いのは山道だけであって、鴨川沿いは電灯があるので足場を確認するには十分明るいのでした(でも橋の下は暗いですけどね)。
ということに思い当たったので決行となり、最近ランニングで何度か走ったコースなら足場の感覚も分かっているので、高野川河川敷(下鴨神社側)の鴨川公園そばから一本歯に履き替えて上り始めました。

河川敷の足場は砂地(と書くとサラサラして歯が埋まりそうに見えますね。「何も生えてない荒地」ですかね)か石畳のどちらかで、石畳は表面が平らの石のタイプと表面が凸の石というか岩のタイプがあります。
靴で歩く時は砂地より石畳の方が歩きやすくて、それは砂地だと地表面で転がる砂のせいで摩擦が減って踏み込む際に靴底がブレてしまうからですが、一本歯(に限らず下駄全般もそうですが)では逆で、石畳より砂地の方が歩きやすいです。
といっても一本歯の歩きやすさにおいては「前方への進みやすさ」よりも「足にかかる負担の小ささ」の方が重要で、つまり砂地だと砂がクッションになりますが石畳だと着地時の地表面と歯底の衝突の衝撃がもろに足に響いてくるのです。
ちょっと歩くだけで砂地と石畳の違いはよく分かって、遍路の道中でアスファルトやコンクリートの地面を歩くのは相当大変そうだなと思ったんですが、京都に来て実際に一本歯で外を歩くまでは「歯がすり減るから歯底にゴムかなんか補強材をつけよう」と思っていたんですが、靴底みたいなゴムをつければ下駄が長持ちする以外に足への負担も軽減されていいことずくめのように見えて、「"歯底の足裏感覚"が鈍る」という欠点がけっこう大きいのではないかと今日歩きながら考えていました。
足裏感覚というのは、裸足で歩いていれば当然足の裏が足の裏ですが(変な言い方)、靴下を履いてフローリングや畳を歩いても地表面の状態を足の裏が感知することはできるわけで、これはつまり靴下の接地表面が足の裏になっている状態と言えます。
同じことは靴底にも言えるし、本記事で話題となっている一本歯の歯底にももちろん言えるんですが、ここまで書いてきた中では「靴下→靴→一本歯」の順に足裏感覚が希薄になっていく……
いや、それは違うか。
足裏感覚(の敏感さ)に関わる要素として「本当の足裏から実際の接地面までの距離」がまず思い浮かびますが、それ以外にイメージしやすい要素として「本当の足裏と実際の接地面の間にある物体の弾性」もあります。
ふつうに靴を履いた状態よりも、靴にインソールを入れて履いた方がクッションが効くかわりに地面の踏み心地が茫漠としてくる、という例は上記の前者と後者の両方が関わります。
インソールを入れて地面と足裏との距離が広がるし、インソールの弾性が高いために着地時の衝撃を吸収する一方で地面の肌理を感知しにくくなる。
で、一本歯はどういうことになるかといえば、前者の「距離」は伸びるんですが後者の「弾性」は低い。
…ここまで書いてから気付いたんですが、距離と弾性を同階層の性質として並列するのはたぶん違っていて、距離は弾性の関数ですね、たぶん(機械系出身にしてこの弱気発言。学問をリアルと結びつけて学ばなかったツケですね)。


ごちゃごちゃしてるんで言いたいことだけさくっと言えば、一本歯の歯底に補強材を付けたら足裏感覚が鈍るのは確かで、その鈍る前の「一本歯の足裏感覚」というのはけっこう敏感なんじゃないか、と思います。
この足裏感覚が鈍ると大変なことになるという印象を今日歩いてみて持ちました。
河川敷の砂場部分は何の問題もなく歩けたんですが、石畳の、特に石ごとに凸になっているやつがなかなか危険でした。

まず基本的な考え方ですが、平らでない部分に歯をのせて体重をかけた時に、その平らでない表面に対して歯底が一番安定になるように歯の表面の角度(傾斜)が決まるわけですが、例えば垂直に足を踏み込んだ場合に(実際は斜め前だったり微調整もできたりしますが)その角度が0°でないと歯底の安定面に垂直"でない"足の踏み込み力ベクトル成分が発生し、その成分によって足下がぐらつきます(ややこしい)。
こう考えると、地面を踏み込む瞬間に接地面の状態を足裏感覚で察知し、接地表面によって規定される歯底の安定面に垂直に踏み込むように調節することで、一本歯の一歩における足下のぐらつきを抑制することができるとわかります。

この「踏み込む瞬間の接地面の状態を察知」できるかどうかが、凹凸の激しい道(岩場、粒の大きい砂利道、木や岩など自然を利用した階段など)において死活問題となるわけですが、この「死活問題」という表現は誇張ではありません。
一本歯でちょっとでも斜面を(地球中心に対して)垂直に踏み込もうものなら、足首の捻挫なんて簡単に起きるし、下手すれば骨折もあり得ます。
今日河川敷を歩いていて、歩道のすぐ横は低い草の生い茂った斜面になっているのですが、練習になるかと思ってちょっと斜面を上り、さあ下りようと方向転換しようとして、歯の長辺が斜面の傾斜方向と平行になるように立とうとした(このとき体は川の上流を向いています。左右の足の高さが違うように斜面に立つ状態で、誰でもふつうにやりますよね)その瞬間に右足首の猛烈な捻り具合"の予感"に超高速で様々な想念が脳内を駆け巡り、踏み込む前にあわてて歯の向きを変えたのでした。
靴でふつうに歩くのとは違うと意識していても、ふとした時に身体が慣れ親しんだ体勢を取ろうとして危機に陥る寸前の体験をしたということなんですが、それが難度としては全然易しい凹凸のほとんどない傾斜で起こったわけです。
大文字山登山という「第一歩」がいかに無謀であったかが身に染みて分かりました。

現状だと夜のプール通いと時間が被るんですが、今日やった「高野川一本歯ナイトウォーク」もなんとか日常に取り入れたいと思います(修行でいえばこっちの方が本筋というか応用というか。でもプールを基礎と考えればなおざりにはできません)。


さて、あとは歩いていて気付いた、考えたことを羅列して書いておきます。

・高野川の河川敷で対岸へ渡る時に、橋へ上がるべく階段を上るわけですが、今日はカナート洛北そば(北大路通)まで行くつもりが何となく危うさを感じて途中で切り上げた東鞍馬口通へ上がる階段が土手の土を階段状に固めたもので、草は生え石も多少詰まってごつごつしていたんですが、階段を上る一歩ごとに「どこを踏み込めば安定か…」と考えておそるおそる踏み出しながら、「靴なら無意識にするする上るところなのに、一本歯を履くとどこもかしこもアスレチックになるな」と感じていました。
ほんとうに、「一歩の大事さ」というか、普段は無数に経ているだけの「一歩一歩を積み重ねることの重さ」をひしひしと感じられて、ああ、この点においてお遍路に一本歯という組み合わせは絶妙な相性だなとこれは本気で思います
また、今気付きましたが上に書いたアスレチック云々は、「自分が変われば世界が変わる」の一例でもありますね。

・一本歯で歩きながら、経験を重ねて慣れていくのはもちろんですが「どのように歩けばよいか」を言葉で表現できるように考えることも大事で、ああでもないこうでもないと身体の使い方を試していました。
西洋歩きよりナンバ歩き(和歩)の方が遅くはなるが安定する(これは靴でも同じ)という点は確認しました。
また、地面を踏み込む時に大事なのは「足首がブレないこと」で、これは上述した歯の安定接地面に対して垂直に踏み込むことで実現できるわけですが、もしこれが完璧にできれば「素足で板の上を歩く」ような感覚になるのではないか、という想像をしてみました。
この想像では歯底が地面に着地する瞬間の衝撃が無視されているのですが、理想的なというか、足にかかるノイズのない(つまり変な方向の力の成分が発生しない)衝撃というものは、もしかしてそうつらいものではないのかもしれないという気がしています。
全身の、あるいは身体各部の使い方の試行錯誤ももちろんですが、一本歯歩きでキィになるのはたぶんこの衝撃力の処理の仕方(発生のさせ方)にあるので、この点はまず重点的に模索していきます。

 × × ×

おまけです。

三条木屋町でご飯を食べる前にbookoff三条店へ行きました。
後ろの予定が詰まっていれば不本意に立ち読みに時間を浪費してしまうことがないと踏んでのことです。
思惑通り店の陳列棚をひととおり確認するだけで済んだのですが、ちょっとした出物がありました。
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なんとタイムリーな。
とはいえ、今は実現が近いというだけで、女史はずっとその道を目指してきたのでしょう(本書『ヒラリー・クイーン 大統領への道』の初版は2004年とあります)。
いしいひさいち氏のマンガにしては(たぶん)珍しく凛々しい表紙絵ですが、さて中は…
(最初にある「主な登場人物」をちらっと見たんですが、ライス補佐官の髪型がののちゃんに似ていて「これ"ブラックののちゃん"やがな」と思わず吹き出しました。二重の意味で)

今後ちょこちょこ読んでいきます。
(写真の後ろ2冊は『だからどーした劇場』と『バイトくん(5)』です)

*1:というように地図を見ながら今日歩いたコースを書き起こすことで通りの名前と方角が勉強になりました。京都で東西南北をパッと言われてどの方角かがスッと思い浮かばないのでこういう努力も大事ですね。「鴨川は南北を流れている」と言われてそりゃそうだと言いたいところなんですが毎回聞いても「あ、そうなんだ」と感心(!)してしまうところは小学生レベルなんですが、幼少期に方角を「向きを基準に身体化」してしまった(「東=右、西=左」という方向音痴の女の子もびっくりのトンデモ等式)ことからして手遅れだと思うのは楽なんですが、余裕があるのでこの際ちょっと努力してみましょう。ちなみにwestとeastがそれぞれ東と西のどちらかという難題(!)もあって、これが未だに即断できず中学生の頃に思いついた解決法を頼ってしまうんですが(つまり会話で咄嗟にこの話になれば必ず言葉に詰まる)、その解決法は「中学の吹奏楽部でやっていた曲に"南西部伝説"というのがあって、その英語タイトルが"southwest saga"である」というもので、最短でも「南西部伝説はsouthwest saga→westは西」という思考の手間がかかり、さらに知りたかったのがeastであった場合は「westは西だからeastは東」ともう一手間を要します。自分で書いていてヒドい話だと思いますが、誰しもこういう「矯正不能の不思議な思考回路」の一つや二つは持っているものです。