human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

思考という「効率の悪い営み」/集団を離れる

高村薫氏の時評集を読み始めました。

作家的時評集2000-2007 (朝日文庫 た 51-1)

作家的時評集2000-2007 (朝日文庫 た 51-1)

氏の本は小説にしろエッセイにしろ、
読むうちにこちらの姿勢が正される想いがします。
姿勢というのは心構えのことで、
例えば読む前に念頭にあった何がしか浮ついたことがきれいさっぱり消失する。

ちょっと考えてみたい所があったので抜粋します。

 誰でも今の政治は「ひどい」と思います。しかし、ではなぜ自分は「ひどい」と思うのか。「少しも生活が楽にならないからだ」「しかし楽にならないのは政治のせいだけだろうか」などなど、一旦伸びた思考の枝は、折にふれて前に伸びた枝と重なり合い、そうして人はそれぞれの社会観、人生観をつくっていきます。それが、今や「ひどい」で止まってしまうのです。
(…)
 あれこれ思考の枝を張ることのない丸坊主の木が、成すすべもなく茫々と立っている風景は、今のこの国の心の風景です。
 それにしても、むしろ情報が豊富になればなるほど、こうして個々にものを考えることの放棄が起こってきているような気がしてなりません。豊富な情報は価値観の多様化をもたらしているのではなく、ただ「あれか、これか」の選択肢を機械的に増やしているだけで、わたくしたちはむしろ「好きだから」「嫌いだから」「何となく」といった直感や気分で生きることを覚えつつあるような気がします

「「ひどい」の次の一言がない私たち」*1 p.72-73(高村薫『作家的時評集2000-2007』)

言うまでもありませんが、自分で考えたことを言葉にすることは社会人として生活するうえで大切です。
また、「考えたことを言葉にする」だけでなく、「言葉にしながら考える」ことで考える前には思いもしなかった発想が浮かぶと、それを引き出してくれた本と自分とがある特別な結びつきを得たようで、充実感があります。
この充実感は、僕がブログを書く動機の一つです。

けれど時に、何か書きたいという思いが生まれてそれを実行する前に「いや、書いても意味ないんじゃないかな」と思ってしまうことがあります。
書くことの結末が書く前から見えていて書く過程にも期待が持てない、と「思考の先読み」をしてしまう場合。・・・(1)
また、これは誰かが考えてそうだな、発想としてありふれているな、と思って動機が失われてしまう場合。・・・(2)

(1)は、自信過剰と自信の無さがないまぜになって起こります。つまり、手を動かさずとも頭を少々回転させるだけで問題提起から結論までの全体が見渡せることに満足するのですが、頭の中で展開される「全体」は筋道立った論理ではあり得ず、大体は関連する単語の羅列か断片的なイメージの連なり、またはその混成です。そしてその"不完全な"「全体」を実際に論理的な言葉で書く手間と報酬を比較して、報酬が少ないという判断をもとに書くことをためらうわけですが、言葉に起こす能力の不足が報酬を少なく見積もる方向に働くことが往々にしてあります。

また(2)のような判断をしてしまうのは「新しい考え方や価値観の提起」に囚われている場合です。
この新しさの基準は自分が読んできた本やブログになるわけですが、何も自分が直接見知ってきたことに限られない、ということに抜粋の下線部を読んで気づきました。
下線部の「豊富な情報」は、ネット上に滞留するもはや個人が想像もつかないほどに厖大な量で、それでいて上手く検索をかければどんな情報も簡単に拾えそうでもある。
あらゆる情報をネットで簡単に検索できて、そのあらゆる情報の中には一個人たる自分が考えつきそうなことは全て含まれていてもおかしくはない。
そのような気に(意識的にしろ無意識的にしろ)なって、何か考え始めようとしたのをやめてしまうとして、ではこの今自分が考える目的とは一体何だろうと幸運にも自省することができたとします。
その時僕が気付くのは、「自分の思考はクラウド(情報の海)への貢献活動である」という発想に自分が捕えられていたという事実です。
大学の研究やメーカでの技術開発の現場ではそういう価値観を前提として仕事をしますが(研究開発の継承と発展、科学技術の蓄積)、一個人が仕事でなく考える時に前提とする価値観ではありません。
でももし、このような発想が僕だけでなく一般的に持たれる傾向があるとすれば、大袈裟に言えばそれは「個がシステムに従属する事態」と言えなくもない。

上の抜粋は以下のように続きます。

 一つひとつ「なぜか」と問うには多すぎる数の情報や、もはや個々人には仕組の分からないブラックボックスと化した電子技術に囲まれている今日、人が思考などという効率の悪い営みを捨ててしまうのは時間の問題だろうという気もします。わたくしは時代のこの流れを否定するものでなく、そういう時代にあって、ではどうすれば、一本の木が思考の枝を伸ばせるのだろうかと考えるのです

同上 p.73

僕は、このように考えてくれる高村氏についてゆく(氏の著作を読んで訥々と考える、ということですが)所存です。

思考なんてのは「効率の悪い営み」だと合理的な判断を下した人が、あるいはその自覚すらなく思考を放棄した人が、どのような人であるのか、いくつか例を知っています。
このことだけで人を嫌う(僕は「嫌う」ことになる前に「避ける」ように心掛けていますが)理由になると言い切るつもりはないし、そのような人も個人として接する場合には問題が表出することは少ないです。
ただ、無思考の人間の集団や、無思考が推奨される集団には、留保なしで近づきたくありません。
それは、僕はそのような集団にいればそうなってしまうような人で、そしてそうなりたくないからです。

 × × ×

「集団が嫌い」と今まで何度も書いてきて、そう言いながらこれまで会社に所属して仕事をしていましたが、漸くというかどういえばよいのか、集団に所属しなくなることが決まってこれからは、自分の言葉が身に染みてくるはずです。
集団に所属する恩恵を受けながら不満を垂れていたのが、集団の後ろ盾がないことの厳しさに触れてどうなってゆくのか。

現状は、自分の言葉の「本気度」を知る、好機といえます。

*1:週刊文春」二〇〇一年四月五日号