human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

『プラグマティズム』再読(1)

プラグマティズムはあらゆる学説の角ばったところを取り除き、それをしなやかなものに矯め直して、それぞれの学説を互いに円滑に働かせようとする。本質的に新しいものではないのであるから、それは古来のあまたの哲学的傾向とよく調和する。例えば、つねに特殊に訴える点で名目論に一致し、実際的見地を強調する点においては功利主義に、ただ言葉の上だけの解決や無益な穿鑿や形而上学的な抽象を軽蔑する点にといては実証主義と一致する。
(…)
かの若いイタリアのプラグマティスト、パピニがいみじくもいったように、プラグマティズムは、ホテルの廊下のように、もろもろの学説の中央に位しているものである。無数の宝がこの廊下に面して開いている。一室には無神論書物を書いている人がいるかもしれない、隣の室では跪いて信仰と力を祈り求めている人がいるかもしれない、第三の室では化学者が一物体の性質を研究しているかもしれぬ。第四番目の室では、理想主義的な形而上学の体系が考案されており、第五室では形而上学の不可能なことが証明されつつある。しかし彼らはみんなこの廊下を自分のものと考えているし、また誰でもめいめいの部屋の出入りに通ることのできる通路を欲する以上は、どうしてもこの廊下を通らざるをえないのである

「第二講 プラグマティズムの意味」p.45,46(W.ジェイムズ『プラグマティズム』桝田啓三郎訳、岩波文庫

プラグマティズム (岩波文庫)

プラグマティズム (岩波文庫)

先週の土曜からVeloceで『プラグマティズム』の再読を始めました。
縁があれば読む、と書いたそのこと↓が縁となったわけです。
最初のページの上側に「'08.9.3 fin」というメモがあります。
M1(大学院1回生)の晩夏に読み終えた8年前に僕の「生活読書」が始まったのでした。

cheechoff.hatenadiary.jp

いわば僕の思想の原点にあたる本なのですが、
そう考えるとどうもプレッシャーになってうまく言葉が出てきません。
けれど、今日読みながら考えていたのは、僕にとってプラグマティズムは、
「言葉にする機会のなかった生活思想を言葉にするツール」なのです。

なので躊躇しないでどんどん言葉を生み出すことを僕は自分に求めたい(ので頑張ります)。

院生の頃に最初に読んで、感動したもののチンプンカンプンで知識としては殆ど残らず、
ただその時はっきりと刻み付けられたこの哲学に対する印象の話をすると、
プラグマティズムは哲学ではなくツールであり、方法であり、生活思想だ」というもので、
この印象が今回の再読(まだ序盤ですが)で確かめられたことにはほっとしました。

 それと同時にプラグマティズムはなんらか特殊な結果を表わすものでもない。それはただ一つの方法であるに過ぎない。しかしながらこの方法があまねく凱歌を奏するに至ったあかつきには、前講において私が哲学の「気質」と呼んだものに重大な変化が起こるであろう。極端な合理論的タイプの教師たちは、さながら官僚タイプの者が共和国にいたたまらなくなり、法王至上権論者的タイプの僧侶がプロテスタント国においていたたまらなくなるのと同じように、いたたまらなくなるに違いない。科学と形而上学とは更にいっそう接近し、事実において全く相提携して働くに至るであろう

同上 p.43-44

ただこの「哲学ではなく」という表現は今考えると微妙ですが、
当時の僕は哲学とは何らかの結論を導くものだと認識していたのかもしれません。
あるいはジャンル分けされるようなものだと。
プラグマティズムはジャンル分け以前のところのものだとは当時も分かっていました。

というのもプラグマティズムは「実用主義」と訳されたりしますが、
「実用」の中身が何かなんてのは当然にも人それぞれだからです。
これは最初の引用にあるパピニの喩えがよく表しています。
…しかし直上の引用の「科学と形而上学の接近」はとても現代的なテーマですよね。

 × × ×

上にリンクを張った記事(「はじまりのジェイムズ」)の「はじまり」とは、
僕にとって1つのとても大きな意味を持っているのですがその「大きいやつ」はおいといて、
ここで書いておきたいもう1つの意味としては、上でツールと書いた通り、
プラグマティズムは物事を(言葉を使った思考として)始める大きな力になります。

以下にする引用における「言葉」とは、形而上学的機能に限定された言葉、
「この言葉を所有することはとにかく宇宙そのものを所有すること」(p.44)としての言葉です。
宇宙の原理(起源)が解明されれば至福が訪れる、というような価値観。
しかしプラグマティズムはそういう「不変」を目指すものではない、という山場を抜粋します。

 しかしながら、もし諸君がプラグマティックな方法に従おうとするならば、そういう言葉をえることで研究が終わりを告げるものと考えることはできない。諸君はこれら一つ一つの言葉の実際的な掛値のない価値を明示して、それを諸君の経験の流れのなかに入れて実際に活用してみなければならない。そうすればかかる言葉は解決であるよりもむしろこれからの仕事のためのプログラムであり、もっと詳しくいえば、現存の実在がそういう風に変化されてゆくかもしれないその方向の暗示であるように思われる
 してみるともろもろの学説なるものは、そこにわれわれが安息することのできる謎の解答なのではあんくて、謎を解くための道具であるということになる

同上 p.44-45

抜粋の中の「暗示」という言葉に惹かれるのは村上春樹の小説が好きだからですが、
そう考えてみるとこの抜粋部分は文学的な要素を含んでいるとも言えます。
今こう書いてみて「おっ?」と思ったのは、今日Veloceで「第二講」を読了した時に
プラグマティズムは"美の追求"に向いてない」とメモを書いていたからです。

ついでなので、そのメモをここに写しておきます。

プラグマティズムは、日本人の生活的思想を言葉にしてくれたような。

<「実際」とは何か?>
生活的日本人が知らなかったのは「具体化と抽象化の往還」
これを知ることで自分(身の丈)の感覚を保ったまま、
世間の外の__を知ることができる。

日本人の生活思想には「変化」はもともとあるが、
「拡がり」はない。
純粋なアメリカ的プラグマティズムだと開拓精神になるが、
日本の血に混ぜると「美」(限界芸術)の追求になる?

「実際とは何か?」について、アメリカ人は
問えば言葉で答えが出てくると思っている。
が、日本人は言葉で問うたことがない

アメリカかぶれでない、日本独自のその言語化は、
そのまま生活に美(文学)を見出すことになる。

(日本独自の言語化)
→固定化する為ではなく、
 変化を促す(、観察する、味わう、重層化する、…)為に…。

開拓先をなくした開拓精神は…
自家中毒を起こす?

アメリカ的プラグマティズム
「美の追求」に向いてない。
←理解(わかりやすさ)を求めるから?

2016.7.29 @Veloce

日本やアメリカという言葉が出てきますが、これらは僕の勝手な印象に基づいた使用で、
ここでいう日本は西洋的価値観を導入する前の日本を指しています。
村八分とか、「お天道様が見てるよ」とか(それは古すぎるか?)。
開拓精神もメイフラワー号時代のイメージで、果たしてプラグマティズムに結びつくのか…?

まあその場の勢いで書いたので今書いているブログよりもテキトー度が甚だしいですが、
まともに言い直せば色んなことが言えるメモ書きにはなっていて、
その全部を再現する力量も体力もとてもありませんが、
本記事を書く前に書こうと思っていた1つだけをちゃんと言い直しておきます。

日本人の「実用」の中身は「以心伝心」とか「なあなあ」なわけですが(これも古いか…)、
このことは日本人の「実用」は言語化に馴染まない(「言わぬが花」)ことを意味します。
実用主義たるプラグマティズムにはそういうものも言語化するモチベーションがあるのですが、
思うに「日本的プラズマティズム」は、「そのものの言語化」という方向には行かない

…ではどこに行くのか?? (続きは続かない)