human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「西へ行ったひと」の歌 - 『モ・無』を読んで(2-1)

 西行の実生活について知られている事実は極めて少いが、彼の歌の姿がそのまま彼の生活の姿だったに相違ないとは、誰にも容易に考えられるところだ。天稟の倫理性と人生無常に関する沈痛な信念とを心中深く蔵して、凝滞を知らず、頽廃を知らず、俗にも僧にも囚われぬ、自在で而も過たぬ、一種の生活法の体得者だったに違いないと思う
西行」p.81(小林秀雄『モオツァルト・無常ということ』)

上の抜粋の「生活法の体得者」という言葉に強く惹かれます。
変化し続けながら「なし崩し」に落ち込まず、中庸の軸から外れた次元にある自由な精神。
そして歌と生活の深い結びつきは、美が生活に反発せず溶け込んでいることを示していて、
西行鶴見俊輔氏のいう限界芸術(限りなく生活に近い芸術)の体現者であったとも言えます。


本記事では歌(短歌)のことを書いてみようと思っています。
僕は歌の素養は全くなく、手持ちは高校古文で習った文法くらいです。
歌を読んでなんとなく見当はついてもそれを正解(つまり通り解釈)とはとても思えず、
ましてや自分でまともな歌を作れるほど正確に言葉を扱う事はできません。

川柳的な俳句(それは俳句でなく川柳ですよね)なら字数を数えて作れますが、
そんな自分が短歌に興味を持ったのはひとえに小林秀雄氏の評論の力です。
論じる人の魅力を存分に引き出し、その人となりだけでなく、
その人の関心対象や生涯で携わった事にも読み手を引き寄せる、磁性を帯びた力。


上で書いた「通り解釈」というものに今の僕は興味はなくて、
ただ現代人(とは大袈裟ですが)が氏の評論、つまり思想を借りつつ短歌に触れて、
どんな言葉が出て来るのだろうというところに興味があります。
それは、回り道なしで「短歌が自分に入ってくる過程」を観察することでもあります。

 × × ×

  捨てたれど隠れて住まぬ人になれば猶世にあるに似たるなりけり

  捨てし折の心を更に改めて見る世の人にわかれはてな

 西行が、こういう馬鹿正直な拙い歌から歩き出したという事は、余程大事なことだと思う。これらは皆思想詩であって、心理詩ではない。そういう事を断って置きたいのも、思想詩というものから全く離れ去った現代の短歌を読みなれた人には、これらの歌の骨組は意志で出来ているという明らかな事が、もはや明らかには見え難いと思うからである。
p81-82 同上

例えば、抜粋の歌の中で、「住まぬ」が否定なのか過去なのかが不明である。
「わかれはてなん」の、「わかれ」とは? 「はて」とは? 「なん(なむ)」とは?
不明なのはもちろん僕の頭だけであって、文法知識があれば否定か過去くらいは分かる。
しかし、「こうすれば分かる」と想像がつけば、その先に進む意欲は特に湧いてこない。

良く言えば、そういう曖昧さを残すことで解釈の可能性が格段に広がります。
僕の興味はひとつは、「それがどこまで広がるか」にあると考えてもよい。
なけなしの文法知識はその広がりの無法性をどこかで押し止めるツールでしかなく、
広げるも狭めるも想像力の機能の仕方如何にかかっている。

 × × ×

言い訳ばかり書いていますが、(「西行」の抜粋&コメントは)まだ始まったところです。