human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

昇華班活動事例研究

今日の本題です。

前段やら話のつながりを意識し過ぎると書きたいことにたどり着けなさそうなので、
飛躍御免(お、いい言葉だ)でさらさら書いていこうと思います。

 × × ×

橋本治氏は「活字の鉄人」と言われるくらいすごいのですが、
それは著書の多岐にわたる分野やその膨大な量の凄さを言っていますが、
感覚的な、あるいは身体的な、容易には言葉で表せないようなことを
(語彙としては)平易な文章で書くところが読み手を夢中にさせます。

僕は言葉の力というか凄さを氏に教わったのですが、
そういう普遍性の高い観点とは別のところで、
氏の文章はときに僕の過去や現在を「個人的に」照らしてくれることがあります。
つまり「参考になる」なんてレベルを超えて「自分のことが書いてある」と思わせる。

だから、氏の言葉を借りて、自分の過去を意味付けしてみたくなります。
その行為を分析やら解釈と呼んでもいいのですが、
それを行った後の「自分が変化する」ことが目に見えています。
つまり科学者自身が系に含まれる「非科学的な」実験なのです。

また、過去の自分が「自分を分析する言葉を持たなかった」ことも、
氏の文章に引き込まれる大きな要因です。
例えば高校生の時に橋本治の本を読んでいたら、
今とは全く異なる方向性をもって人生を歩んでいたことでしょう。


特定の本といつ出会うかというのは、人の出会いと同じく偶然の産物で、
「こうあったかもしれない別の人生」の想像はある種とても魅力的ですが、
その魅力のいくらかは「今ある人生」を踏み台にして成り立っています。
その「別の人生」を「今ある人生」と切り離さない想像力によって、偶然と親しくなれます。

 × × ×

 昔っから僕は、女の格好したいとは思わないのね。でも、女のしてる格好の、その、なんかが羨ましいから、「自分の中にそれをとっつかまえるにはどうすればいいんだろうか?」ってことばっかりやってる。結局自分がやってるのは、男というものの領域を広げていることだけだなって思うのね。

「第一部 新人類の曙と保留印の女達の前近代」p.62 (橋本治『ぼくたちの近代史』河出文庫

本の文脈は全く無視して抜粋していますが、
僕はこの下線部を読んだ時に、自分の過去がワーッと押し寄せてくるのを感じました。
過去の出来事を思い出したというよりは押し寄せてきたという僕にとって受動的な感覚で、
その出来事たちは「変化」(新たな解釈)に惹かれて意識上にやってきたように思えます。


僕は「女の子になりたい」と思っていた時期が長くありました。
散発的ですが、はじめは小学校の頃から今まで、積算すれば長期にわたります。
それがあってか、男らしくないと思われることに抵抗はなく、
逆に自分の中に女性的な性質を見つけると嬉しく思ったりしていました。

祖母に女性用のかつらを付けられて「似合う」と言われた時の僕は屈託なく笑っていました。
高校の友人に旅行先でチャイナドレスを着せられた(主犯は女の子達)時は強く抵抗しましたが、
抵抗した理由は自分の中ではなく外にあったのだと今は自然に捉えることができます。
長髪のウィッグと黒ストッキングに(薄)化粧までされて、内なる僕は「へー」と思っていました。

なぜそんなことになるのか当時の僕には理解できませんでしたが、
周りには「こいつなら(こういう)ネタにしても大丈夫だ」という感触があったのでしょう。
僕は昔も今も女の子が好きですが昔は(今もですが)自分からは女の子に寄り付きませんでした。
たぶんその「寄り付かなさ」のせいで、ホモの疑いをかけられたこともありました。

その疑いを解くことにあまり熱心でなかったことも、僕の外的印象をねじ曲げたことでしょう。
小学校は記憶がありませんが、中学から男子とばかりつるんでいたのはその方が安心だからで、
女子と消極的にしか関わらなかった原因は中学校で所属していた吹奏楽部の経験にあります。
そこで僕は女子への(妄想的な)欲望がかき立てられる前に現実を見せつけられていたのでした。


上でとりあげた抜粋部を読んで最初に浮かんできた人のことを書きます。
彼女は高校時代のクラスメイトで、在学中はあまり関わりがありませんでしたが、
ちょっとしたことに魅力を感じ、好意か憧れのようなものをずっと温めていました。
会う機会は卒業後に増えましたが、みんなで遊ぶ以上のことはしませんでした。

とはいえ、二人で散歩に行ったり、旅行先で二人きりでボートに乗ったりという場面はありました。
その場にいる時は、いや正確にはその場に臨もうとしている時は、
自分の思いをどう伝えよう、という考えが緊張で混乱した頭の中にあったはずですが、
それは実現せず、僕は意気地がない、状況にすぐ流される、と受け身な自分を呪っていました。

そんな過去があり、それから他の女性と関わりがなかったわけではありませんが、
卒業後から今まで、何か機会があるとその彼女のことが頭に浮かびました。
大学院生になって読書を知り、自分の言葉で考える充実を知ってからは、
「僕にとって彼女はなんなのだろう?」と思った時にそれを言葉にする試みをしたこともあります。


彼女を念頭に書いた記事はもっとありますが、
書いた記憶が(内容ではなく事実として)今も残っていて、検索して出てきたものを張っておきます。
上の3つではもはや彼女の人となりとは無関係に私的詩的妄想が暴発していますが、
4つめはわりと正気の頭で「僕における彼女の位置付け」を検討しています。

 彼女 : 深爪エリマキトカゲ 
 続・彼女 : 深爪エリマキトカゲ
 彼女3 : 深爪エリマキトカゲ
 師弟関係と恋愛関係 : 深爪エリマキトカゲ

ある女の子の前でドキドキする、頭が真っ白になってしまうのは当然「恋」だろう、
という"常識"は、友人との日常よりも小説やマンガに強く植え付けられてきました。
恋は思い込みと勘違いを強烈な駆動力とするのでそれを常識とすることに文句はありません。
そして恋の存在は分析して判明するものではありません。

とはいえ、上の4つめの記事にあるように、
彼女と会わなくなってから時間が経つにつれ「恋ではない」と思えてきたようです。
「では師匠なのか?」というとそうでもなくて、
やっと上の抜粋に話がつながるんですが、現在至った認識としては"それ"は「憧れ」でした。


この表現は過去にも使ったことがありますが、今はもっと詳細に言葉にすることができます。
僕は、彼女と一緒にいたいのではなく、彼女のようになりたかった。
または、当時に思いつける唯一の有効な「手段」として、彼女と一緒にいたかった。
そしてこの憧れは、「彼女のような女の子になりたい」とは異なります。

周りに関心がないように見え、自由奔放に行動しながら、みんなから尊敬されている。
集団が与える属性とは無縁に、ただ彼女の個性によって慕われている。
人の尊敬を受けることは大変充実した、素晴らしいことのように思えるのだが、
彼女は思い上がることもなく、影響を受けることもなく、ただ超然としている。

こう書いてみると、森博嗣氏に対する僕の印象と似ているかもしれません。
このことは意外と本筋にも関係しますが、
僕が彼女に感じた魅力は上に書いた通り「周りに影響されずに自分を信じられること」で、
僕が彼女に対してあれこれ思い悩んだのは「そんな人間が彼女しかいなかった」からでした。

つまり、優柔不断・付和雷同を体現する僕にはある理想的な人間像があって、
その人間像に当てはまる人が当時の僕のまわりには、
男性には誰もおらず、女性にはクラスメイトの女の子として彼女しかいなかった。
同年代の異性を自分のあるべき理想像として「だけ」見るのは、高校生にはまず不可能でしょう

その人間像に当てはまる人は今なら両手の指くらいは挙げられると思いますが、
それは読書を生活の一部として続けているからこそできることで、
そしてその理想の人は全て「本の中の人」です。
物語の中の人であれ、実在する(していた)人であれ。


ずいぶん遠くなりましたが、上の抜粋の「自分のなかにそれをとっつかまえる」という表現、
このくだけた身体的な言葉遣いが、この言葉と僕の経験とをリンクさせたように思います

そういえば僕が彼女を思い浮かべる時に、「彼女ならここでどう振る舞うだろうか」、
「彼女ならどういう考え方をするだろうか」という形をとっていたこともありました。

そんないいものじゃありませんが、こう書いてみて、
犀川創平が真賀田四季の思考をトレースしようとする場面を連想しました。
彼女も秀才ではなく天才寄りの人間で(それ以外の意味で四季と一緒にする気はありません)、
想像力を抑圧せず、生活から独立して想像する能力は僕が実際知る人々の中で突出しています

 × × ×

オチをつける気はありません(人の印象は常に移り変わります)が、最後に一つ。
実験の前後で実験者が変わる「(系として)非科学的な実験」と最初の方に書きましたが、
なるほど確かに「変化」したかもしれない、と思えることがありました。
この記事を書きながら、彼女の高校時のあだ名の由来に今さらながら気付いたのでした。

昔は自分の言葉で考えなかったというのは本当で、
学校で習う(あらゆる教科の)言葉も、吹奏楽やジャズの音楽用語も、あるいはゲーム用語も、
「言葉はそれはそうあるものとしてある」としてそのまま吸収していました。
言葉の由来に発想が全く至らなかったのも、その言葉に対するスタンスの一つの表れです。

その具体例を挙げようかと思いましたが、長くなりそうなので止めておきます。
彼女のあだ名は、たぶん、彼女の(姓名の)名に由来するはずです。
こういう、よく知った人の名を生身の印象と離して捉える視点を上で「変化」と書きましたが、
この変化は少し寂しくもあり、けれどとても人間的だと思います。


彼女に会ってみたいという思いは変わらずあり、
(数年前に同窓会で話したのは「会った」にカウントしていません)
その時に自分が彼女に話す内容についても、やはり興味があります。
その興味が増したと感じられるのは、おそらく本記事の思考がその内容を「変えた」からです。


予想通り、『ぼくたちの近代史』を今日中に読み終えるのは難しそうです。