human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

原罪進行形

 小説は論文じゃない。朝起きたり道を歩いたりすることをわざわざ書く。そのこと自体が何かでなければおかしい。私は確信が持てないままカフカを読みつづけた。自分のこの感じがようやく確かなものになったのは、前回の小島信夫の小説を通じてだ。小説とは読後に意味をうんぬんするようなものでなく、一行一行 を読むという時間の中にしかない。音楽を聴くことやスポーツを観ることと同じだ。いま読んでいるその行で何が起こっているかを見逃してしまったら小説の興奮はない。そこにあるのは言葉としての意味になる以前の、驚きや戸惑いや唐突な笑いだ

■たいせつな本(下) カフカ 『城』 朝日新聞 2008年1月13日(日)
保坂和志エッセイ集のページより)

中沢 アメリカ・インディアンに小形の映画カメラを渡して映画撮影をするという研究が、六〇年代のアメリカの諸大学で行われました。その映画を見たことがあるんですけど、とても面白い。(…)ナヴァホ族が撮った有名な『機織り』という映画があります。これは、普通だったら、カッコン、カッコン機織りしているところの映画を撮るでしょう。ところがそうじゃなくて、機織りをしているおばあさんが、カタンと席を立って、小屋の中に糸を取りに行って、取って戻ってくるその途中の場面だけを撮る。機織り自体にはまったく関心がありません。(…)映画に映ったその姿を見たインディアンが、一体何に感動していたかというと、ある地点から別の目的地に馬に乗って走るという目的をもった行為ではなくて、その時どきに馬が見せる表情とか、ステップとか、そんなものばっかり見て面白がっていたのですね。インディアンは映画を見た時に、映画っていうのは、役に立たない、人生の意味や目的からはずれたように見える、またそれだけに豊かな現実の世界の姿を、そのまま記録できる道具なんだということを発見して、感動して、自分たちにその記録道具を渡された時には、一生懸命、どうでもいいことばっかり撮るわけです

ナヴァホ族の映画『機織り』」p.130-131 (河合隼雄中沢新一『ブッダの夢』)

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後者の抜粋部分をさっき読んでいて、前者を連想しました。
保坂氏のnon-book textは平日の朝食時に読んでいて、前者の抜粋部はたしか先週後半くらいに読んだでしょうか。

保坂氏の文章を初めて読んで面白いと思ってから(最初に読んだ著書はハードエッセイ『言葉の外へ』でした。社会人になりたてで毎週市立図書館に通っていた時期に保坂氏のこの本のことを知って借りに行ったのですが、途中で線を引きたくてたまらなくなったので新品で購入して再度始めから読み始めたという経緯があります)の自分の興味の方向がまさに上に抜粋したようなことで、そういえばマンガでも映画でも、そのような読み方をしています。

マンガで同じ章を(間をあけて)繰り返し読んで毎回新しい発見があるのは、1コマの枠内をくまなく読み込むだけでなく、その同じコマを見入る間に脳内に再生されるなにかが蓄積もあって毎回違うからだし、逆に「一気読み」みたいなことをしようとしても抵抗があってできなくて(その理由を「もったいないから」だと昔の吝嗇系男子(またヒドい造語を…)だった頃の自分基準で考えていましたが今書きながらこれが間違いだったと気付きました。一度にできる経験の容量が限られていて、濃密な経験を一度に大量にしてしまうとその「個々の濃密さ」が薄められてしまうからです)、ストーリーは本質ではなく土台としての安心感というか保険の役割のような気もしているし、このことは毎週の映画鑑賞の仕方に強く顕れていて、というのは筋立てが意味不明でも瞬間的に強い印象を与えて何がしかの衝撃を心に刻むシーンのある(多過ぎると疲れる気もするけど)映画を観た後に「いい映画だった」と思う傾向が今の自分にはあって、例えば前に書いた『パルプ・フィクション』(Q.タランティーノ)がその筆頭で、最近観た中ではあと『宮沢賢治 その愛』(神山征二郎)、『七人の侍』(黒澤明)などがそういう観点で「アタリ」でした。

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そして後者の抜粋の先を読んでいて、
思わず膝を打ちたくなるような箇所に遭遇します。
(この本にはそういう遭遇が唐突に出てきます。そのことを示唆するような本書の前書きが面白いのですが、それはまた別の記事で紹介します)

河合 なんかね、そもそも言葉というのが出てきたのがいけないというとこがあったでしょう。『魔法としての言葉──アメリカ・インディアンの口承詩』(思潮社)で書かれているのは、言葉というものができたのは、文学の原罪であるという。あれ、すごい面白い表現だと思います。(…)ナヴァホの男に聞くと、言葉には意味がない。けれども、歌にはちゃんと意味がある。そういうことを言ってるわけですね。(…)「魔法は呼吸の中にある」と。だから、とうとう、文字が出てきた。ということは、これは文学の原罪である。原罪を購うために、みんないやというほど小説を書いているわけです。すごい卓見だと思う

同上 p.132-133


みんないやというほど小説を書き、そして読む。
言葉を極めて、言葉の外へ踏み出すために。
その矛盾を冒し、その矛盾を乗り越えるために。

梯子は既に外されているのです。