いつもの席。
カウンターの向かい、ガラスごしに外の明るさが見える二人がけの席。
今日も吉本隆明の『共同幻想論』を読んでいる。
今の時間帯は軽快なインストジャズが流れている。
(本当は逆で、その種のジャズが流れていることからおおまかな時間が把握できる)
長らく空いていた左隣の席に長身痩躯の女性が近づく。
均整のとれた体型だが、動きに不自然なキレのなさを周辺視野で感じとる。
良くない徴候と既視感とが同時に到来する。
不自然に長い間ののち、彼女はコーヒーの載ったトレイをテーブルに置いて席に座る。
膝の上にハンカチを敷く。
ああ、やはりそうかと思う。
体の右に引き寄せていたポーチからお菓子を取り出す。
テーブルと膝の隙間で封を切る音がカサカサと鳴る。
素早く口に放り込み、ボリボリと噛み砕く音が響く(煎餅だろうか?)。
一口食べるごとに、コーヒーを一口飲む。
動きに無駄はないが、常に周囲を注視する緊張に精神的怠惰が混ざっている。
ぶつぶつと独り言が聴こえ始める。
カフェのBGMに合わせて口ずさんでいるような、しかし特定の音程だけ強調されているような、耳に障る声。
ちらりと横目で窺うと、口は閉じられている。
どうやら空耳のようだが、そうと分かっても独り言が障り続ける。
本に集中できない。
堅い言い回しと関係詞の多用によって入り組んだ一文が何度読み返しても頭に入らない。
どうにもいたたまれなくなり、席を立つ。
席に戻ると、彼女のコーヒーカップは空になっている。
どうやら食べ終えたらしい。
しばらく店の内装を眺めているうちに彼女は席を立つ。
安心して本に戻る。
入り組んだ一文は真面目に文字を追うと埒の明かない文章だと気付く。
文化人類学の親族構造例はさらりと読み飛ばすに限る。
読み飛ばすべき文章を読み飛ばせない心境を再認識する。
結果としての視野狭窄を、意思とは間違えまいと戒める。
しばらくすると、左隣の席に競馬新聞片手の初老の男性が座る。
せかせかとも、きびきびともとれる動きをする。
ワンルームのテーブルで、競馬場の食堂で繰り返されたシステマティックな動き。
動きは目につくが、空耳は聴こえない。
聴こえないことに驚く。
聴こえてもおかしくないBGMだった。
「自己還帰的でない空耳」というものがあるのだ。
× × ×
「別にとくに用事はないんだ」と僕は正直に言った。「明日から旅行でしばらくいなくなる。それでその前に君の声を聞いておきたかったんだ。それだけだよ。時々とても君の声が聞きたくなる」
彼女はまたしばらく黙っていた。電話が少し混線していた。ものすごく遠くの方で女が喋っている声が聞こえた。長い廊下の向こうの端から聞こえてくるような声だった。小さく乾いていて、妙な響き方をした。内容までは聞き取れなかったが、それはとても辛そうな声に聞こえた。辛そうに、途切れ途切れにその声は話しつづけていた。
(…)
女はゆっくりと梯子でも登るみたいに、辛そうに話し続けていた。まるで死人が語りかけているみたいだな、と僕はふと思った。長い廊下の端の方から死人が話しかけている。死んでいるというのが、どれほど辛いことなのかについて。
村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス(下)』
× × ×
ウェブの類語辞書で調べた時に、類語の多さにびっくりすることがあります。
類語の多いその語は、日本の文化を表しているように思います。
ここには例えば「エスキモーは"白"を意味する語を数十種類以上もつ」ことと同じ深さがあり、
わずかな差異を見つけて表現せざるを得ないという「必然の歴史」が刻まれているのです。
これを前に"Cool Japanese"(このCoolもとても日本的な「クール」です)と呼んだ↓ことがありました。
タイトルは…何でしょう?
蛞蝓なら貼り付いて踏ん張れるけどミミズはすとんと落ちちゃうという。
「寝耳にミミズ」の方がずっと分かりやすいですね。(うひー)