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お遍路天狗の京都修行日記

ただいま一本歯で四国遍路中。

高村薫氏と農への関心について

2000字~  -高村薫 生活

先週の日曜日だったと思いますが、日本農業新聞高村薫氏の寄稿文が載っていました。
これは僕にとって驚きであるとともに、大きな示唆を与える出来事でした。
以下の写真はその寄稿文の切り抜きです。

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過去のブログ記事によると、農業新聞を読み始めたのは約1年半前です。
cheechoff.hatenadiary.jp
それまで読んでいた朝日新聞には、僕の好む著名人がたくさん寄稿していました。
(それは主に文化欄のことで、著名人というのは本を書く人に限られるのですが)
新聞を変える前の最後の方は文化欄だけを楽しみに読んでいただけに、
高橋源一郎氏や…他は忘れましたが、何人かの記事が読めなくなるのを寂しく思いました。

そう思って、農業新聞を読み始めた初っ端から、内田樹氏の寄稿文に出くわしました。
こんなところで出会うなんて、と一瞬は感激したのですが、それが一瞬で済んだのは、
氏は依頼があればジャンル問わず書く(し、書ける)人だということを思い出したからです。

また、理由は忘れましたが農業新聞をとるのを一度止めてみようかと思った同じ時に、
連載小説が終わって次に始まる連載が田口ランディ氏のエッセイだという記事を目にして、
この絶妙なタイミングに「これは読み続けるしかあるまい」と思いを新たにしたこともありました。
この連載エッセイは先月に完結し、今は朝井まかて氏の童話的連載小説が続いています。

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という経緯があり、全く個人的な話ではありますが、
僕がその著書に親しんできた作家(ウチダ氏は…随筆家でしょうか?)の寄稿記事として、
高村薫氏は3人目ということになります。

そして、ウチダ氏、ランディ氏と同様に高村薫氏にも、
僕はその著書から大きな影響を受けてきました。

 × × ×

 今『新潮』という文芸誌で連載している小説の題名が、『土の記』といいます。舞台は奈良県の大宇陀(宇陀市)。中山間地で棚田があるような場所です。主人公は電機メーカーの工場を定年退職した男性です。
(…)
 農業が題材の小説で、別に大きな事件が起きるわけではない。長雨になれば、素人農家でも悩む。空模様を見ながら、素人なりに水の管理を考える。定年退職しているので暇があり、深刻さはない。そんな素人農家の一年間を季節ごとに追いかける、という小説です。
 ただし、主人公は元技術者で、理科系の人間。だからまるで実験をするかのように、自分で考えながら、いろいろなことをやってみます
「食の履歴書」日本農業新聞 5月1日

冒頭に載せた記事から一部を抜粋しました(日付に確証はありませんが…)。
まず、高村氏が農業についての小説を書いていることに衝撃を受けました。
氏はこれまで、ほぼ「刑事事件もの」の小説を書いてきた人だからです。
(氏は記事の中で「自然と関心が戻っていった」と言われています)

そして、氏が今連載している小説のあらすじを読んで、
「これは僕が農業に対して持っている関心の在り方そのものだ」
とも思いました。
言葉で明示化したことはありませんでしたが、
言われてみれば、まさにその通りだ、と。
(ちなみに農業新聞の中でこれと同じ思想を持つ連載としては、
 福田俊氏の「おまかせ菜園 フクダ流」という記事があり、
 川野郁代氏のマンガと共に毎週興味深く読んでいます。
 いつか自分が家庭菜園を始めるかもしれない、という可能性とは関係なく、
 実験的な面白さを感じた記事は切り抜いて取ってあります)

単行本化を心待ちにしておきます。
何年かぶりに「新刊で購入する本」になるかもしれません。
(毎週BookOffに通っていると、本を新品で買わなくなるのです)
あるいは実家から調達できることになるかもしれませんが…

 × × ×

高村氏は寄稿文の中で、
「刑事が主人公の話よりも、土の話に自然と気持ちが傾いていったのです」
とも書かれています。

このことは…いや、改めてこう言われずとも、
氏のこれまでの小説と、今連載中の小説とは氏を通して繋がっていることは分かるし、
それは同じ人が書いたというだけでなく、「地続きである」のです。

登場人物の内面が氏自身の精神の奥の奥から絞り出すように書かれる筆致が、
『土の記』ではどのような変貌を遂げるのか、
あるいはテーマは変わっても姿勢として引き継がれるのかは想像できませんが、
『土の記』を読むことで、
いや、そのような物語が今書かれているという事実を知るだけで、
過去の氏の小説に厚みが増すことが、僕には確からしく思われます。


最近ちょうど、「福澤彰之シリーズ」の第1作、
『晴子情歌』を読み直そうかと思っていたところでした。
このシリーズ(『晴子情歌』、『新リア王』、『太陽を曳く馬』)は5年前に読みましたが、
第2作には昭和期の政治について、第3作には宗教について大いに関心を刺激されて
それぞれどっぷり没入するように読んだ一方で、
第1作は話の展開の単調さに苦労して読了するのが精一杯でした。

けれど「今なら間違いなくしっかりと読める」と少し前に思っていたのですが、
今回の寄稿文を読んで、その「今なら」の意味が元々どのようなものであったのか
見失ってしまったのですが、もはやそれはどうでもよいことです。

この際、シリーズを最初から全て再読するのもよいかもしれません。

 × × ×

冒頭の「示唆」については、今は心の内に留めておくことにします。
いずれまた書きたくなる時が来ます。