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引っ越して落ち着いたらタイトル考えます(仮)

本格的に本と関わっていきます。

時鐘(寺鐘)の音

 ぼくは一度、母の臨終の床に侍した三人の農夫を身近に見たことがあった。もとよりそれは痛々しくはあった。二度目の臍の緒が断ち切られるわけだった。(…)ただぼくは、同時にこういう事実も発見した。この訣別によって生命もまた二度目に与えられるのだと。この息子たち、彼らもまた彼らの順番に先達となり、集合点となり、やがて長老ともなるのだと。彼らが彼らの順番に、いま中庭で遊んでいるあの一団の子供たちに、司令権を譲りわたすであろうそのときまで。
(…)
 それかあらぬか、あの夢、あの田舎の寒村の、死者を告げる寺鐘の音が、絶望ではなしに、つつましくもやさしいよろこびを、ぼくの耳に伝えたものだった。同じその声で、葬式も洗礼式も執り行うあの鐘は、またしてもいま、一つの世代が、他の世代に移ることを告げていた。こうしていま、哀れな一人の老婆が、大地と交わす婚約の歌声の鐘の音を聞きながら、人はひたすら、大きな平和な気持だけしか味わわない。
「人間」p.225-226 (サン=テグジュペリ『人間の土地』)

群青学舎』(入江亜紀)の2巻にある短編「時鐘(Time-Bell)」のことは、
去年読んで少し書き(↓)、連想があってつい最近また思い返したところでした。

cheechoff.hatenadiary.jp

その音を聞くのは大人たちで、
その「音ならぬ音」を聴くのは子供たちのようです。

でも、テグジュペリは「聞く」と同時に「聴く」ことができる。
彼の声を聞くことで、僕ら大人たちも「聴く」ことができるようになるかもしれません。