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本格的に本と関わっていきます。

『満足の文化』(J.K.ガルブレイス)を読んで

『満足の文化』(J.K.ガルブレイス)を「午後いっぱい@Veloce×3日」で読了しました。
とても面白かったです。
経済学者の本とは思えないくらい。


92年にアメリカで出版された本で、
原題は "THE CULTURE OF CONTENTMENT" というのですが、
contentmentは他動詞であるcontent(満足させる)の名詞化です。
そのcontentは「内容、中身」という名詞でもあって、
日本語でいうコンテンツはこちらに対応しています。

たぶん語源が一緒だからこうなっているのだと思うんですが、
現代的な意味で、特にカタカナの「コンテンツ」からこのことを考えてみると、
「満足」が指す状態について想像がつきます。

現代において「満足」とは、短期的な、もっといえば瞬間的な現象になっていて、
けれど「満足の文化」の本質はそれを定常的に求める志向にあって、
ここには莫大な消耗があります。

感覚的に言えば「じっとしていられない病」みたいなものです。

 × × ×

僕は経済の本をあまり読みませんが、
それは経済学が面白いと思えないからで、
なぜ面白くないかといえば、
経済すなわちお金の話にはどうしても人間性が深く絡んでくるはずなのに、
経済学(理論)が語るのは「人間性が漂白されたお金の話」ばかりだからです。
あんまり読んでないのに決めつけるのもなんですが…

ガルブレイスのこの本には経済学の枠組みでアメリカ社会の成り立ちが書かれていますが、
言い換えるとここには、アメリカ政治に深く関わった経験*1に裏打ちされた、
非情に視野が広く、かつ透徹した思考でもって「人間性」が書かれています。

これは僕が生活で実践する「身の丈思考」と対極にあるのですが、
生活を営む前提となる社会が複雑怪奇なシステムである以上、
なおざりにしては身の丈の感覚が知らずに失われてしまう視点でもあります。
(人間が設計し尽くした社会で「自然に生活する」ことは果たして「自然」なのか?)
敢えて理由付けをすれば、だから本書を興味深く読めるのかもしれません。

以下より、読み進めていて、立ち止まって考えさせられた数カ所を抜粋しておきます。

 × × ×

 満足の時代の教義の基礎は、マレーの公式*2によって完成された。すなわち、富者を励ますために所得税率を引き下げながら税収は減らさず、貧者への支出を削減する。論理的に非の打ちどころのないアダム・スミスの支持である。これらを一緒にした教義が、いわゆる「サプライサイド・エコノミクス」であった。その意味するところは、経済政策の対象を、経済における総需要の流れに影響を与える要因ではなく、イニシアティブと生産を刺激して財やサービスの供給を増大させ経済を拡大させる要因に集中させるということであった。そのためには、富者はさらなる儲けという刺激を必要とし、貧者は貧困という刺激を必要とするのである。
「第8章 経済学の適応 その2」p.114

橋本治氏は著書に「"身の丈の必要性"だけでは経済を回すには足りなくなった」と、高度成長期だかバブル前だか忘れましたがある時期から社会批評本(たとえば『ああでもなくこうでもなく』シリーズとか)で何度も書いていましたが、それを経済用語で書くとこうなるのですね。
需要というのは端的にいえば必要性のことで、下線部は「いや、大事なのは需要じゃなくて供給なんだ」と言っていて、つまり現代は「身の丈の必要性」=「貧困層の需要」という時代なのですね。

立ち止まって考えないと身の丈感覚が失われるのは当然だと思えてきます。

投票しない人々のうちの一部は不法入国者であり、さらに多いのは恵まれない国から最近入国して市民権取得を待っている人々である。(…)彼らが投票に行かない最大の理由は、(…)貧困に打ちのめされている彼らにとっては、投票は無意味だからである。(…)このようにして、満足せる多数派*3のルールが実現されていく。
 さらに付け加えれば、大統領や立法府の活動、より正確には無活動が、社会的に排除された人々をいかに苦しめ疎外する結果をもたらそうと──ホームレス、飢餓、教育の不備、麻薬の苦しみ、貧困──すべては民主主義の承認を得たものということになる。これと似た例がある。一九八九年から一九九〇年にかけての大転換期以前の東欧諸国で、あらゆる不満や疎外は社会主義という虚飾によって覆われていた。社会主義なのだから不幸であるはずがないというわけである。今のアメリカでも似たような言い方がされている。アメリカは民主的システムの国である……。要するに、システム上、間違いはないはずだというわけである。人口の半数が大統領選挙に参加せず、国会議員の選挙にいたってはその数はさらに少ないという事実が気づかれていないわけではない。しかし、そのことによって、民主主義が基本原理であり恵み深いものだという考え方が傷つくことはないのである。
「第12章 満足の政治」p.154-155

上にもちらりと書きましたが、やはり「システム」という言葉が出てくるとつい反応してしまいます。
抜粋にある「システム上、間違いはないはずだ」という信頼、いや妄信はどこからくるのだろうと考え、その具体的…というか社会単位でその妄信がどう実現されているかは本書に書いてあるんですが、それとは別に何か書けるんじゃないかと思って、ここで小休止してちょっと考えてみました。
その、Veloceで読んでいる時にページに書き込んだメモをそのまま以下に書き写します。

「人が人の為につくったモノに間違いがあるはずがない」
←このモノが「物」と「システム」の場合とで、どう違う?
  ↓
システムとは、「生活的な物」を安定供給する「体制」のことで、物ではない
が、「生活的な物」の享受をもってシステムの安定性を実感してしまう

モノ自体に善悪はなく、人がモノを扱う方法が問題となる
システムは、人が考えて構築した「モノの善い扱い方」である
→システムに従えば、個人が「モノの扱い方」を考える必要はない!

例えば、教科書は「システム」である

へえ、という感じですが(ちょっと他人事)、
この自分のメモを読んで、
「システムも人がつくったモノである」ことを忘れないことが大切だと思いました。

かつては、広範で多面的な国家介入が資本主義を救った。ところが現在、経済的成功と社会的に平穏な未来を確保するために必要な国家活動に対して、抵抗が生じているのである。
(…)
軍務、高度技術兵器の買い上げといった、すでに強調したいくつかの分野では、国家の役割が是認される。あるいは、現実のものであれ、言葉の上だけのものであれ、外交政策に関する行為、社会保障、失敗した金融機関の救済等の場合にも、国家介入の妥当性が認められる。しかし、満足の経済のはらむ社会的に有害な傾向や自己破壊的な傾向を防いだり、貧困者を救済するために国家が規制を行う場合には、その活動は妥当性を欠き効果がないものとされる。こうした部門に雇用されている公務員は、汚職もするし、官僚的で無気力で無能で、ときには自分本位で、非効率きわまりないと見なされる。(…)公務員が適性を欠き無能であるということが広く言いたてられれば、おそらく一部の人は実際にそうなってしまうかもしれない。奉仕ぶりが賞賛されれば、人間というものはさらによく奉仕するものである。(…)公共的活動に関する現在の差別は、明らかに、短期的視野による問題回避と関係がある。
「第15章 レクイエム」p.179-180

この抜粋の下線部を読んで、最近読み終えた田口ランディ氏の著書の一節を連想しました。
敬意や賞賛も、あるいは非難や無理解も、対象となった人を「その気にさせる」
面と向かっての言葉に限らず、ネット上に氾濫する言葉の一つひとつでさえも、「言葉は"祝い"にも"呪い"にもなる」ことをしっかり心に刻んでおきます。
(これは僕がいつも書いている「自分を裏切らない言葉を使う」ことと同じです。自分自身に使う言葉と他人に対して使う言葉が同じでないことはもちろんですが、言葉に対する感受性を敏感にしておくこと、それと言葉の実効的な機能について知っておくこと(この両者は重なる部分が大きいと思います)を押えておけば、いざ自分以外の"特定の"人(この意味で、このブログはまだ弱いです)に言葉を向ける時になっても不安は少ないと考えています。相手を知り、その相手に対して自分を懸けて発した言葉が届こうが届くまいが、その結果はまずは受け入れる以外にないからです)
そして、人が発する言葉は、その言葉の意味だけでなく、その言葉の(宛先となる人に対する)効果も含めて、発した人の意思・願望が込められているということも、忘れないようにします。
この自覚を持ち、言葉に対する感受性を保ち続ければ、コミュニケーションにおける「望まぬ誤解」は減っていくはずです。

…話はそれ以前かもしれませんが。
つまり、「自分は何を望んでいるか?」ですね。
考えれば考えるほど、考えるべきことが増えていきます。

 これから先、もし原発を止めても、廃炉までには長い年月と費用が必要です。さらに放射性廃棄物の管理をし続けるために、原子力という技術を捨てるわけにはいきません。日本が責任をもって核廃棄物を見守り続けるために必要なことは、脱原発後の長く不毛と思える仕事への社会的理解と共感でありましょう
 もし、本当に日本の原子力発電所がすべて止まったら、そのあと原子力業界は、地味で生産性のない管理作業を続けていくことになります。もしその仕事が社会から低く見られて、誰からも顧みられなくなれば、東海村の臨界事故のように、構造的なリスクが生まれます。社会的に批判され続ければその業界に優秀な研究者は残らないでしょう。科学者が去った廃炉作業現場や放射性廃棄物管理現場は世間から忘れ去られ、いつしか人員も減り、効率を優先させるために現場の従事者に負担がかかるようになることは必至です。そのことを学ぶために、私たちはあの、東海村の臨界事故を経験したのかもしれません。
「終章 黙示録の解放」p.172-173(田口ランディヒロシマナガサキフクシマ 原子力を受け入れた日本』)

*1:一九四〇年のルーズベルトの選挙戦以来、私[ガルブレイス]は大統領選挙のスピーチライターを何度もやっているので、本文で述べたような政治戦略の算術的性格とそれを具体的な政治戦略にどう利用するかについて、よく見聞きしてきた。(p.197 原注(50))

*2:マレー理論はかなり込み入っているが、そのエッセンスは、貧困層はその窮状を救うための公的措置、とりわけ福祉支出によってかえって貧困状態から抜け出せなくなるということである。(p.113)

*3:かつては経済的社会的に幸運な人々は少数派で、ほんのひと握りの支配者であった。しかし、これまで見てきたように、この層は今では多数派になり、しかも彼らは市民のすべてではなく、実際に投票行動をする市民という意味の多数派なのである。彼らは、「満足せる多数派」とも呼べる(…)彼らが有権者全体の中で多数派なのではないことを再度繰り返しておく。彼らは、デモクラシーという装いのもとに支配するが、そのデモクラシーには、恵まれていない人々は参加していないのである。満足せる人々は決して黙っていない。これが最も重要なことである。本書で展開するように、彼らは自分たちの自己満足状態を侵しそうなものにたいしては、はっきりと怒りを示すのである。(p.27-28)