human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「受け身派」擁護論

日曜午後は、先週から『私家版 日本語文法』(井上ひさし)を読んでいます。
初版が昭和56年(1981年)で、1つ前の『狩人日記』(安野光雅)に続いて古い本です。

では、文法の授業を暗記力の鍛錬時間にしないためにどんな方法があるだろうか。たとえば、「日本語の動詞は次のふたつに分けることができる。第一のグループは<ある>で代表されるもの。原則としてこの<あるグループ>は主体が非情物のときに用いられ、受け身は作られにくい。第二のグループは<いる>で代表されるもの。この<いるグループ>は主体が有情物のときに出てくる動詞で、受け身が作られやすい」と教えてみてはどうだろう。(…)補足の説明としては、「主体となる事物が人格のあるものなら有情、人格があると認められないときは非情と思えばいい」で充分である。
「受身上手はいつからなのか」p.40-41 (井上ひさし『私家版 日本語文法』)

「受け身」という言葉がネガティブに使われることがよくあって、
学校では「もっと主体的に行動しなさい」と教えられ、
「近頃の若者はなんでも受動的で若さがない」と年輩方から苦言が呈されます。

そういう一般的な傾向とは別に僕の場合は、
僕個人に向けて受動的であることを指摘する声が、
義務教育を受けている間に多くありました。

だから僕自身は「受け身」という言葉に強くこだわってきて、
それを直す努力に励んだり、あるいは正当化する論理を組み立てたりしてきました。

自分が受け身だと指摘されることについては今や後ろめたさはなく、
それは自分がそう育ってきた以上は仕方がないからですが、
受け身という言葉に対する興味は昔以上に大きく持っています。
その言葉を文章に見つけた場合に「自分のことが書いてある」と思えるほどに


さて、受け身の性質が批判される場合には、
「受動的」の対義表現として「能動的」があることが前提となっています。
「人に命令される前に自分から動きなさい」というわけです。
言いたいことはよく分かりますが、どうも腑に落ちず、
「ほんとかな?」と思ってこれについて考えたことがあります。
自分から動くにしても、何かの必要を自分が感じて動くわけで、
それはその必要性に対して受動的ではないのか? とか。
学校で先生に対してこんなことを言えば屁理屈だと返されておしまいですが、
屁理屈もなにも、もともとが理屈として成立していないのです。

ちゃんと書けば、受動性の対義語として能動性が成立するのは、
明示的な認識の場という枠組みの中でのことです。
面と向かってのコミュニケーションを例にとれば、
お互いが発する会話のみを考慮に入れ、
しぐさや表情その他は全て認識の対象には含まれない。
言葉を使う時に、「言葉では表現し切れないものがある」ことを、
意識しないまでも暗黙の了解としている子どもにとっては、
「人に命令される前に自分から動きなさい」という命令に素直に従うことができる。
学校教育における国語は「言葉を道具として使う」ことから始めるので、
そのような子どもが「素直な子ども」であることに疑いはありません。

話が急に飛びますが、
僕が「受動性」に言葉としてこだわるようになったのは、
言葉の道具的でない方の機能、すなわち、
「(元々の)意味の外にある"なにか"を導くこと」
に興味を持つようになったことと関係があるように思えます


抜粋部の話になりますが、
「非情物は受け身が作られにくく、有情物は受け身が作られやすい」
という部分に強く興味を惹かれました。
先の能動性・受動性の話と単純に対応させると、
「非情物は能動的」となってしまいますが、そんなわけありません。
情緒的な見方をすればなるほどと思えないこともありませんが。
(サディスティックな人は能動的なイメージがあります)
抜粋の下線部を読んで、僕はあらためて、
受動と能動は対ではないなと思いました。
生物学的な話をすれば、
生き物のあらゆる状態変化(行動もその1つです)は反応の成果で、
「反応」と言う以上、その変化は受動的でしかあり得ないからです。

そんなことは言葉以前の話で、
日常生活で深く考えても何の益もない、
というプラグマティックな意見ももっともですが、
またまた話は飛びますが、
情報社会ではそのような意見があまりにも当たり前になって、
「情報以前」がないがしろにされています。
(情報以前とは、養老孟司氏がよく「情報と情報化」と言う時の後者です)
それが結局は、身の丈感覚の喪失につながります。

 ところで、日本語ではなぜ有情物にのみ受身表現があるのだろうか。この難問を解いたのは、『國家大觀』の編集者として知られ、日本最初の口語文典『日本俗語文典』を著わした松下大三郎(一八七八〜一九三五)で、彼は《受身の主體になるものは利害を感ずるといふ意味において人格が認められてゐる。利害といつても多くは害である》(『標準日本文法』)と喝破した。(…)有情のものに好ましくないことがふりかかったり、人格を認められるものが好ましくない状態におかれるような場合に受身が用いられるのである。むろん、「社長に認められて、重役に抜擢された」など、迷惑でない場合もあるが、多くは、害を受けたときにこの受身表現は鋭い切れ味を持つ。すくなくとも日本語ではそういうことになっている。
同上 p.42

「やれやれ」
と、この抜粋部を読んでまず思ったのですが、
そういえば害を受けた時にしかこういう溜め息はつかなくて、
もっと言えば、害を受けた時にこそ「やれやれ」が"映える"のですね。
(抜粋では「鋭い切れ味を持つ」とあります)

…ふと思ったのですが、
圧政を敷く為政者より虐げられている貧民に人間味を感じるのは、
為政者より貧民の方がその境遇の共感しやすいという以前に、
受動性そのものに人間味が含まれているからではないのでしょうか。


本記事の上の方では受動性と能動性の対の話をしましたが、
「どれだけ受動性を感じるか」という指標も、
一つの価値判断になるのではと考えています。
そして、論理を地道に積み上げられなくて飛躍してしまいますが、
「受動性をあまり感じないこと」は、
物事を単純化して捉える傾向と関係しているのでは
、とも。
(例えば能動性をもてはやすことが「受動性をあまり感じないこと」の一例です)

受け身であることに忠実となることは、
ある意味で「感覚への入力を見逃さないこと」です。
しかし刺激に溢れて入力過多の都市社会では、
生命維持という身体の必要に迫られて感覚が遮断されます。
その反応は身体にとって根本的に矛盾していて、
身体の感度を下げるごとに生命力は損なわれていきます。

身体性を賦活して感度を下げないことと、
個人の理解をとうに超えた複雑なシステムで構成された社会で生活すること。
この2つをともに成り立たせるうえで、
「受け身であること」はとても大事なことであるように思えます

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私家版 日本語文法 (新潮文庫)

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