human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

教訓の主体的生成機能について

前にも「教訓」というテーマでがっしりとした話を書いた記憶がありますが(これ↓かな?)、
その前回とはおそらく違う結論が導かれるはずです。
cheechoff.hatenadiary.jp

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「あんな本を手にとって読む人がいたなんてなあ、信じられないよな」と詩人[シェリル・クロウの『オール・アイ・ウォナ・ドゥ』の歌詞を作った人]は今でも懐疑的であるが(どうやらペシミスティックな人みたいだ)、彼は数週間にして去年の年収分を手にしてしまったということだ。まあそれはよかった。昨今まれにみるグッド・ニュースである。まったく人生はどう転ぶかわからない。「満ちない新月がないように、好転しない難局もない……としっかりここで法則化できるといいのだけれど、そう簡単には断言できないところがつらいですね。「ものごとは暗い側面のほうがより明確に法則化できる」というのもムラカミ・ピーターの法則のひとつである
「どうしようもないタニヤ、猫の調教チーム、発見された詩人」p.184(村上春樹『うずまき猫のみつけかた』
[ ]内は抜粋者が補足

ここでいう「法則」は教訓のようなものだと思います。
ハルキ氏といえば小説でもエッセイでもばんばん教訓を生み出す「キョークナー」(フォークナーみたい)として有名ですが、抜粋の下線部を読んだ時も「うーん、そうだよなあ…」と(ニュートラルな意味で)二の句が継げずにしばらく考え込みました。

教訓とは自分の経験と照らし合わせてかみしめるためのもので、上手く表現された、つまり洗練された教訓ほど、そこから新たに言葉を付け加えることが難しいことになっています。
これは僕のいつもの読書姿勢ですが、この教訓を読んで何かを連想して、何か書けるかなと思って言葉にしようと思って、でも具体的な過去の経験以上に抽象的なものが浮かんでこなくて、それで上に書いたとおり「うーん…」となり、諦めて先に進むことにしました。

そして次の抜粋のところにさしかかった時に、はたと気付きました。

 実をいうと僕は、自宅の庭をいつも綺麗に大事に手入れしているスティーヴが、ときどき庭にウンコをしていくモリス/コウタロー(僕も何度かその現場を目撃した)を憎むあまり、ネコイラズか何かを使って──ネコイラズを使って猫を殺すというのも変なものだけれど──毒殺して、こっそりとどこかに埋めてしまったんじゃないかと密かに疑っていたのである。スティーヴがいなくなったコウタローのことを懐かしがっているなんて、正直言って夢にも思わなかった。いつも思うことだけれど、根拠なく人を疑ってはいけない
「生きていたコウタロー、アルバトロスのリスキーな運命、タコの死にゆく道」p.216(同上)

つまり、

「教訓の機能は教訓的ではないな」

と。


何のことかと言いますと、最初に抜粋した中の「ものごとは暗い側面のほうがより明確に法則化できる」というメタ法則(メタ教訓)が、まさに教訓が生まれるゆえんを説明していて、つまり基本的にはイヤな思いをしたとか苦労したとかネガティブな経験が教訓の種なのです
で、このエッセイを読んでいてハルキ氏も自由気ままな海外非定住生活といいながら苦労してるなあということがわかるんですが、その生活の中でハルキ氏が生み出す教訓の数々は、ふつう僕らが考えているように「同じ失敗を繰り返さず、よりスマートに生きていくため」のものではありません。

教訓集みたいなものは文庫レベルの分量で数え切れないほど出版されていて、昔からどれも似たような内容なのに流行りがあって売れ筋にもなるわけですが、多くのこれらハウツー本がどれも似たような内容であることの意味は、教訓は別に科学的研究を深めていくとか学問的に掘り下げるようなものではなく「ありふれた話」をちょっと上手くまとめたようなものでしかないということです。
だから教訓は発明ではなく(つまり進歩性はなく、もちろん新規性もない…そもそも「自然法則に基づいた技術思想」でもありませんが。以上知財的解説でした)、教訓を生み出す元になった経験は一つひとつ違っていても、それらが教訓へと昇華された段階で個性は失われます。
というか逆に「個性たっぷりの教訓」なんてものに普遍性を見出すのは困難なわけですが。


なんというか、抜粋の下線部を読んだ時に「いや、そんなこと言っても疑っちゃいますよね」とまず思って(僕も想像力を抑制しない人なので他人のことを勝手に決めつけることがよくあります)、こう思った正直さの肩を持つなら、この教訓は「次に同じような場面が起こった時に人を疑わないためのもの」ではないことになり、「いやきっとそうだ、そうに違いない」と思ったことをきっかけに本記事を書き始めたんですが、なかなか話が進まないので最初に言いたかったことを書きますと、教訓は、教訓をまさに生み出さんとする本人がまさにハルキ氏の(構造的な)口癖であるところの「やれやれ」と呟くために生を享けるわけです
そしていつも同じ話を繰り返していくうちクリシェ化して意味が省みられなくなるのではなく、毎度のことながらも生まれたてホヤホヤの「ザ・教訓」(それが教訓集にまとめられたりすると「ア・教訓」に成り下がるわけです)には経験に裏付けられた言葉の力が宿っていて、けれどもそれは「心からの反省」としては機能しない。

話がぐるぐるしていますが、くだけた感じで結論を言いますと(なぜ「くだけた感じ」で表現するかというと、結論自体が「くだけた感じ」だからです)「人間って結局こんなもんやし、あんま肩ひじ張ってもしゃーないけど、"なしくずし"ってのもちょっとアレやから、まあ気いつけなあかんわなあ」という認識が教訓の生成時にその当事者によってなされるわけです。

(ところで最近平日の夜に『ダンス・ダンス・ダンス』(村上春樹)を読んでいて「雪かき」に思いを巡らすことが多いのですが、「教訓の主体的生成」は世の中に(いや、少なくとも自分の中に)"なしくずし"をはびこらせるのを防ぐという機能としては「文化的雪かき」の一種なのかなと、これは本記事を書き上げて文の細かいところを整えている間にふと思いつきました)

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この「教訓を生み出した本人にとっての教訓の機能」という考えが僕にとっては新しくて、というのも学校教育の中での教訓の公的立場は(「先生から説教的に聞かされてもう"耳タコのうんざりさん"だわ」というように)あまりよいものではなくてそう思いながらも自分が人に教える立場になるとついつい「過去の自分がうっとうしがったこと」を他人に繰り返してしまう、という一連のありふれた常識が幅をきかせて「教訓とは訓示対象である他人に対して機能する」ことがあらためてこれだけ言われても「だから何なの?」と思われるくらい当たり前だったからで、この考えの新しさに「へー」としばらく浸っていたんですが(そうだ、あらためて考えればハルキ氏がエッセイに書いている教訓に対して(「上から目線」といったような)ネガティブな印象を抱いたことが一度もないですね)、そうやって洗濯機から乾燥ずみの洗濯物を取り出している時に、ふと連想が閃いたのでした。

 子守唄は、なぜか悲しいひびきしか持たなかった。子守唄は必ずしも子どもをあやすための唄ではなかった。メロディはべつとして、赤ん坊に歌の言葉が通じるわけはあるまい。
 子守唄は、実は、それが必要であるほどに小さな子が、子守りをアルバイトとして他家の子をあやすかたわら、自分自身の悲しみを鎮めるために唄いついだ、と考えたほうがいい
(…)
 このようにいわゆる子守唄はやはり、守りをする人のためのものではないかと思われるふしがあるが、そもそも、メルヘンといわれるものがそうなのだ。おとぎばなしは、子どもを目の前において語りかける。……が、「子どもという一つの装置を借りて、自分自身が子どもの世界に入っていくというのが、実は、思ってもみなかった真のねらいなのだ」と仮定すると、民話や、おとぎばなしの評価、あるいは謎の部分がかなりはっきりしてくるのである
「動物子守唄」p.17,19(安野光雅『狩人日記』)


この抜粋を書きながら驚いたのは、上で書いた閃いたというのは最初に「子守唄」という言葉が思い浮かんで、それに続いてこの抜粋の前半下線部が記憶の底から引き出されてきたという順序なんですが、その前半部の関連としてこちらも抜粋しようと思った後半部には「民話やおとぎばなし」とあって、これらには教訓的な話がとても多いからです(たとえば「日本むかしばなし」でぱっと思いつくものには全て教訓が含まれているように思います)。

連想が輪っかになって繋がったようであり、
いやそもそも全ては同じ話だったかのようでもあり、
輪っかは繋がらず螺旋状にぐるぐると渦巻いていくようでもあります。

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情報が巷やネットに溢れるほど情報の一つひとつが他人事に聴こえてくる現代ですが(その同じ情報が、ネットにどっぷり浸かるほど「自分のこと」のように思えてくるという極端な振れ幅が意味するのは「ネット空間には身体がない」ことです)、「当事者性」を大事にして情報を噛み砕いていけば、流通している意味とは別のものが見えてくるだろうと思います。

味気ないまとめ方になりましたが、
ニュアンスはもちろん「やれやれ」です。

この「溜め息的感嘆詞」をうまく使いこなせるようになりたいですね。
それには「苦労人であること」が必須条件になりますが…

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ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

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