human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「小カッコウ」の「カッコウ例」をいくつか

 結局ケチなんじゃないかと言われそうだけれど、決してそういうのではない。生活の中に個人的な「小確幸」(小さいけれども、確かな幸福)を見出すためには、多かれ少なかれ自己規制みたいなものが必要とされる。たとえば我慢して激しく運動した後に飲むきりきりに冷えたビールみたいなもので、「うーん、そうだ、これだ」と一人で目を閉じて思わずつぶやいてしまうような感興、それがなんといっても「小確幸」の醍醐味である。そしてそういった「小確幸」のない人生なんて、かすかすの砂漠のようなものにすぎないと僕は思うのだけれど。
信販売いろいろ、楽しい猫の「食う寝る遊ぶ」時計 p.126(村上春樹『うずまき猫のみつけかた』)

抜粋さいしょの「ケチなんじゃないかと言われそう」というのは、
古いレコード集めがハルキ氏の趣味で、アメリカに来たばかりの頃に「お値打ち品」のレコードを見つけて大変迷ったが「氏自身の値付け感覚」からすると高かったので結局買わなかったそのレコードを、三年後に十分の一以下の値段で見つけたことに対してなのですが、
この部分を読んで僕は僕自身のBookOff通いについて思いを巡らすことになりました。

 × × ×

学部4回生の時からちょこちょこ通うようになったのですが、
その頃は原付で吹田から豊中まで171を10分ほど飛ばさないと行けない距離で、
(マニアックすぎてH大の人にしか分かりませんが、国道171号線は北大阪の幹線道路です)
研究室配属初期の自由時間が比較的多かった時も週に一度がいい方でした。

それが院生になって、暇な、というより総じて倦怠感に包まれた研究室に配属されて、
(当時は麻痺してましたが、入ると大型液晶とプレステ3がまず目に入るM研は退廃的とすらいえる)
BookOffが歩いて通える距離に存在したがために(「(当時の)心のオアシス」京都三条店)、
週数回通い、ひどい時には昼飯を抜いて朝から夕方までひたすら立ち読みをしていました。

そして社会人になって、まあ社会人なりに秩序ある習慣にせねばと入社一年目の4月に考え、
早々と第2の最寄り駅(しかし徒歩40分以上)近くに店を見つけた僕は、
「毎週土曜に通い、立ち読みをし、必ず1冊以上購入する」
というルールを設けました。

以来、立ち読みする時間が変わったり(初期は半日もザラでしたが今は2〜3時間ほど)、
基準としての一度の購入冊数が変わったり(部屋の本棚が溢れ始めてからは基本的に1冊)、
店の移転があって通う支店が変わったり(少し遠くなり徒歩50分)、
はたまた雨天時の対応が変わったり(今はよほど雨が強くなければバスに乗らない)しましたが、
秩序ある習慣としてのBookOff通いはこの約6年の間、静かに淡々と続いています。

(ちなみに立ち読み後に行くVeloceの方は6年間ずっと同じですが、この話は別の機会に譲ります)


そのような僕のBookOff通いにおいて、
「毎週通うこと」と「立ち読み」は紛れもなく習慣なのですが、
「古本の購入」については、いや習慣には違いありませんが、
ハルキ氏にこのように(↓)指摘されて、「そうか、趣味でもあるのか」と気付いたのでした

古いレコード集めはあくまで僕の趣味であって、趣味というのは自分でルールを作るゲームみたいなものである。お金さえ出せば何でも揃うというのでは、これは面白くもなんともない。だからたとえ相場より安いですよと他人に言われても、自分が「これはいささか値付けが高い」と思えば、それはやはり高いのである。だから深く悩んだ末に結局買わなかった。
同上 p.125

で、ここでいうルール、最初の抜粋にある「自己規制」についてと、
同じく最初の抜粋の「小確幸」について以下に書きたいと思います。

 × × ×

まず自己規制について。

 (1)108円or200円の古本しか買わない
 (2)よほど切迫した事情がなければ一度に購入するのは2冊まで
 (3)立ち読みする前に品定めしておいて、読み終えてから購入する

こんなところです。
特に何でもなさそうなルールに見えますが、
このルールを忠実に守ることで数々のドラマが生まれ、
具体的には数々の「小確幸」と「小確不幸」が生まれたのでした。

このトピックに関しての自分の「小確幸」にはどんなものがあったかな、
とちょっと考えると簡単に6つほどがぽこっと思い出されました。
このように記憶にちゃんとしまわれているのは「自己規制」の賜物だな、
とハルキ氏(の最初の抜粋下線部)に気付かされました。

 × × ×

ということで次は僕の「小確幸」の格好の例をいくつか。
(以下、長いです。正直こんなに長くなるとは…思い入れ強し、ですね)

(1)
内田樹氏の著書は安売りの(つまり108or200円の)棚で見掛けることが少なくて、
氏自身に人気があるからですが特に売れ筋の氏の本は滅多に並ぶことがなくて、
そんな長年の経験を積んできた僕がある日「寝な構」を見つけた時の胸の高鳴り。
「寝な構」とは『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)のことです。
見つけた当時はBookOffオンラインでの中古価格も半額くらいだったと思います。
チェーン店だから値付けはどの店でも(オンラインショップでも)統一されているはずで、
その相場より値段が安いと書き込みが多い、紙が傷んでいる等の「いわく」をまず疑うのですが、
その「いわく」がないことを確認してやっと、
胸の高鳴りに含まれていた不安要素の1つが解消されたのでした。
(不安要素はもう1つあって、それは上述のルールを見直してもらえるとわかるのですが、
 「立ち読みしてる間に誰かに買われたらどうしよう」という不安ですね。
 賢い消費者なら欲しい商品を見つけた瞬間にレジに持っていくのでしょうが、
 BookOffでの僕は「趣味的消費者」なのでそのような浅ましい振る舞いはしないのです。
 もっとも、このルールのお陰で逃した本も数知れずありますが…)

(2)
『源氏供養』(橋本治)が上巻だけ手元(自分の部屋)にあって、
とある祝日に一日で読破してしまおうと取りかかり、しかしそれは叶わなくて、
平日読書に組み込まれることで持ち越されたのですが、
そうして平日に読み終えた週の土曜日に、
「まあ、あるといいよね、ないだろうけど」
と冗談で思いながら108円文庫棚のハ行を眺めると『源氏供養(下)』が目に飛び込んできた衝撃。
これは覚えているのですが、店で買った時のこの本のオンライン価格は¥198でした。
(ちなみにシンクロ的発見に満足したのか下巻はまだ読んでいません。次の祝日かな…)

(3)
『海図と航海日誌』(池澤夏樹)を寝しなにちびちび読み進めていて、
森鴎外のことが書かれた章に「鴎外は小説よりもエッセイの方がいい」とあって、
具体的にどういう文脈でいいと書かれていたかは忘れましたが、
(いや、文学的には鴎外が書いた小説よりも、
 鴎外が西欧小説を翻訳して日本に紹介した功績の方がが大きい、といった話だったかな…)
『雁』を学生の頃に読んで面白さが分からなかった自分には「へえ」と思える話で、
これを読んだ週の土曜はたまたま月一で別の支店に行く日だったのですが、
(端的に書くと、昨年からシダトレン治療のため月一で医者に通うついでがその理由です)
文学全集とか古い本が並ぶ棚にちょうど森鴎外の撰集が小説、エッセイ共にあり、
縁を感じたので『鴎外選集 第十一巻』(エッセイの第1巻)を¥108で購入しました。
その翌週にいつもの方の店に行くと、たまたま眺めた108円文庫棚のマ行に
『父の帽子』(森茉莉があるのを見つけ、縁続きにほくほくして、もちろん買いました。
森茉莉が鴎外の娘だというのは知っていて、でも知っていた理由はあまり文学的ではなく、
 森博嗣が描くマンガ「茉莉森探偵事件簿」の名前の由来を森氏のエッセイで読んでいたからです。
 因みが過ぎますが…「スタートレック」に興味を持ったのはこのマンガの影響です。
 『宇宙大作戦 スター・トレック』(ジーン・ロッデンベリイ)は人間ドラマ的にとても面白かった)
もひとつ(こちらは本題の方の)ちなみにですが、選集を買った翌月に同じ店に行った時には、
その同じ棚に鴎外の撰集はひとつ残らず消失していました。
さすがに108円は安過ぎるし、誰かがまとめ買いをしたのでしょう。
購入した鴎外エッセイは上記の池澤氏の本とかわりばんこに寝る前にちびちび読んでいます。
一昔前の(言文一致体でない?)文章で、とても読みづらくて、入眠効果は抜群です。
今までにない面白さを感じているところなので、またどこかでこの本について書ければと思います。

(4)
上の(3)にも書いた「月一の別の支店」で森博嗣本の大放出があった時の歓喜。
(「だいはなてん」ではありません。というシャレは東大阪の人にしか通じない…)
このことについては以前に(なぜかカブと共に)写真付きで書いたのでリンクを張っておきます。
『喜嶋先生の静かな世界』(森博嗣)を読んで - ユルい井戸コアラ鳩詣

(5)
『ソロモンの偽証』(宮部みゆきの文庫本(出版が最近なので滅多に並ばない)が、
6冊まとめて108円棚に並んでいることに驚愕し、
「6冊一気に買ったら重いしな…」などとぶつぶつ言い訳を呟き、後ろ髪ひかれながらその場を離れ、
立ち読みをして戻ってくると、さも当然のように忽然と姿を消しておりました。
やれやれ。

(6)
これはつい2週間前の話で、新書108円棚の中公新書のところに古い本が何冊かまとめて出現し、
誰か本人か親が所有していた本をまとめて売ったのかしらという雰囲気がありましたが、
その中に『主体性の進化論』(今西錦司という本があって、この著者に見覚えがあるな…
としばらく考えて、鶴見俊輔氏が「国からの文化勲章を断ったのはあの人くらいだ」と、
いや、「あんな人でも文化勲章とか言われるともらわざるを得なくなるんだよな」だったかもですが、
とにかく肯定的な文脈で著書に書かれていたことを思い出し、
よし、これも縁だ(正確なニュアンスは「これで縁だ」ですね)、いっちょ買ってみよう、
と決めながらも別の棚を物色するのは当然の習慣なのですが、
すると今度は『書を捨てよ、町へ出よう』(寺山修司を「見つけてしまい」(まさにこのニュアンス)、
しかも新旧同時(写真を最後に載せます)という印象的な見つけ方をしたものだから悩み始め、
寺山氏の著書は読んだことはなくて、鶴見氏の手による撰集を一冊読んだきりなのですが、
こちらは日本農業新聞の連載エッセイでおなじみ田口ランディ氏がメモリアルな出会いをした人、
という話がランディ氏のエッセイにあり(確かこの出会いが氏が分筆業界に関わるきっかけと書いていた)、
つまり縁と縁がぶつかる形になり、
まあふつうに考えれば3冊とも買えばいいんですが、
上記のルールを守ろうとしたのか「縁の過剰適用」(?)を恐れたのか、
結局は文庫のカバー絵がステキなのに惹かれて寺山氏の二冊を買いました。
…とくればもうオチは想像できるかと思いますが、
その翌週に新書棚を見ると、
まとまった古い本たちの中で『主体性の進化論』だけがなくなってい(るように見え)ました。
やれやれ。

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 × × ×

ちなみに(これが最後の「ちなみさん」です。女の人でふつうにいそうだな)、「小確幸」について。

これは「しょうかっこう」と読むと思われますが、小学校に見えるのでタイトルではカタカナにしました。
漢字で表記されると言いたいことを過不足なく表せていて分かりやすいのですが、
どうも「なにかべつのもの」を明にか暗にか示しているような感じが頭からしばらく離れなくて、
うーんと思いながらさっきエッセイを読み進めていたのですが、

先の遭遇から間をおいて再び表れた時(これも「小確幸」の一例になるので抜粋しておきます)に、
まさに雷撃に打たれるがごとく「それ」=「なにかべつのもの」が(脳内に)姿を表したのでした。

(続きはCM…ではなく抜粋のあとで)

一度気付いた「そうとしか見えなくなる」ので、覚悟して先をお読み下さい。

牧歌的な高級田舎町プリンストンに比べたらここは犯罪も多いし、鍵もきちんとかけなくてはならないし、夜はあまりうろうろ出歩けないし、ニューヨークほどではないにせよ人もぴりぴりと神経を尖らせている。でもそれにもかかわらず、「おいしいパン屋があるのってやっぱりいいよな」とつい考えてしまう。とくにのんびりと散歩がてら近所のパン屋に買い物に行って、ついでにそこでちょっとコーヒーを飲みながら(アメリカのベイカリーには椅子が置いてあって、そこでコーヒーの飲めるところが多い)焼きたての温かいパンを手でちぎってかりかりと齧るのは、僕にとっての「小確幸」のひとつである
ジャック・ライアンの買い物、レタスの値段、猫喜びビデオ p.165(同上)


「小」と「幸」がひとつ間を空けて並んでいる…

そう、
あの例の、
年の暮れに出現する、
「なんだかとてつもない衣装の人」
のことです。


……。

いや、別に何の恨みもないし、そもそもその人のことをほとんど何も知りませんが、

「小カッコウ」の方がいいですね。

なんだか長閑そうだし。