human in book bouquet

司書資格を活かせる仕事を探していきます。

確信と直観と、その関係について

読んでいる間、これは書いておかねば、と思った箇所。

小林 それからもう一つ、あなたは確信したことばかり書いていらっしゃいますね。自分の確信したことしか文章に書いていない。これは不思議なことなんですが、いまの学者は、確信したことなんか一言も書きません。学説は書きますよ、知識は書きますよ、しかし私は人間として、人生をこう渡っているということを書いている学者は実に実にまれなのです。(…)(1)私は文章としてものを読みますからね、その人の確信が現れていないような文章はおもしろくないのです。岡さんの文章には確信だけが書いてあるのですよ。(…)
岡 ありがとうございます。どうも、確信のないことを書くということは数学者にはできないだろうと思いますね。確信しない間は複雑で書けない。
小林 (2)確信しないあいだは、複雑で書けない、まさにそのとおりですね。確信したことを書くくらい単純なことはない。しかし世間は、おそらくその逆を考えるのが普通なのですよ。確信したことを言うのは、なにか気負い立たねばならない。確信しない奴を説得しなければならない。まあそんなふうにいきり立つのが常態なんですよ
(…)
岡 人が何と思おうと自分はこうとしか思えないというものが直観ですが、それがないのですね。
小林 ええ、おっしゃるとおりかも知れません。(3)直観と確信とが離れ離れになっているのです。僕はなになにを確信する、と言う。では実物のなにが直観できているのか、という問題でしょう。その点で、私は嘘をつくかつかぬかという、全く尋常な問題に帰すると考えているのですが、余計な理窟ばかり並べているのですよ、そうとしか思えません。
岡 躾けられて、そのとおりに行為するのと、自分がそうとしか思えないからその通り行為するのと、全く違います。
「数学と詩の相似」p.110-112(小林秀雄岡潔『人間の建設』)

便宜的に番号(1)〜(3)を振らせて頂きました。

(1)
ある文章の、書かれ方(文体)や筆者の考え方の表れにシンクロできればどんな内容でも読める、
ということを『おじさん的思考』(内田樹)を読んだ経験が気付かせてくれたのですが、
ここで言われていることはその違う表現ではないかと思いました。
「確信」というのは、理解しているかそうでないか、が本質ではありません。
自分は理解していないことを確信して書かれた文章にも共感し、または恐れ入ることができます。
(「わからない」を連呼する"確信の人"の筆頭は間違いなく橋本治氏です)

本はその人で、
面白いことが書いてあれば共に笑い、
難しくてわからないことが書いてあれば一緒に頭を抱えて悩む、
そういうコミュニケーションができる本は確信でもって書かれていて、
書いた人の確信があって初めて、
本はその人になる、
ということだと思います。

(2)
「確信したことを書くくらい単純なことはない」とは、
明細書を書く仕事をしているのでとても頷ける指摘で、
これも内容の複雑さには関係なく、
「ただありのままの自分を出せばいい」からですね。
ただそれだけやってると仕事にならないのは自分が未熟なのと、
あとは効率を優先する成果主義で会社が回っているから仕方のないことです。

ただ自分が好きで書く文章(つまりこのブログですね)にはそのような制約がないので、
「確信したことを書く」ことを第一にしようと思えばできます。
(制約がないと言いつつ平日は時間に追われてしまうわけですが)
これを実践していくためのヒントがここに書いてあることに気付きました。

つまり(2)に書いてあることと逆をすればよくて、
 「気負い立たないで書く」
 「確信しない奴を説得する必要なんてない」
…普段の僕のスタンスと一緒ですね。
とはいえ、読んだ本に感化されて時に気負ってしまうことがあるので、
それは気をつけておきましょう。
また、説得的な文章を、説得したい人がいないのに書いてもしょうがないです。

(3)
この「嘘をつくかつかぬかという全く尋常な問題」という言葉にガンと来たんですが、
普段から「自分に嘘をつかない言葉を使う」と意識しているまさにそのことなのです。

いくつか前に同じ本を抜粋した時に積木細工の喩えの話があったかと思いますが、
積木細工的自転車操業で回る社会(とくに都会)でふつうに生活していると、
この「全く尋常な問題」を全く尋常に忘却してしまうものだと僕は考えています。
だから敢えて問題意識を持たないと「自分に嘘をつく感覚」を取り戻せなくて、
でもこれは心がけの問題だけではなく生活環境の問題でもあります。

去年の「ゆくくる」に書きたかった(書いた?)ことかもしれませんが、
そして僕の「"何をするか"ではなく"どうあるか"」という抽象的な思想ともリンクしますが、
 "ふつうに生活していて自分に嘘をつかないでいられる"
ようにありたい、そういう場所で生活したい、と僕は思っているのですね。

これが「全く尋常な問題」であるという小林氏の確信に基づいた言葉を胸に秘めておきます。
そしてここで掘り下げられませんでしたが、
「直観と確信とが離れ離れになっている」ことについて、
生活の中で念頭に置きつつ考えてみようと思います。
自分の言葉で何か書いてみたいですね。