human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

一(個)と全体(組織)について<併読リンク>

 僕は学校を出て以来どこの組織にも属することなく一人でこつこつと生きて来たわけだけれど、その二十年ちょっとのあいだに身をもって学んだ事実がひとつだけある。それは「個人と組織が喧嘩をしたら、まず間違いなく組織のほうが勝つ」ということだ。(…)たしかに一時的には個人が組織に対して勝利を収めたように見えることもある。しかし長いスパンをとって見てみれば、必ず最後には組織が勝利を収めている。ときどきふと「一人で生きていくというのは、どうせ負けるための過程にすぎないのではないか、と思うこともある。でも、それでもやはり僕らは「いやはや疲れるなあ」と思いながらも、孤軍奮闘していかなくてはならない。何故なら、個人が個人として生きていくこと、そしてその存在基盤を世界に指し示すこと、それが小説を書くことの意味だと僕は思っているからだ。そしてそのような姿勢を貫くためには人間はなるべくなら身体を健康に強く保持しておいたほうがいい(おかないよりはずっといい)と僕は思っている。もちろんこれはあくまでひとつの限定された考え方にすぎないわけですが。
「ダイエット、避暑地の猫」p.71,74(村上春樹『うずまき猫のみつけかた』)


昨日に個人と集団の話を書いて、今日ちょうど読んだところに個と組織の話が出てきて、
これもひとつのシンクロニシティだと思ったので抜粋してみました。


ここを読んでまず連想したのは「"壁"と"卵"の話」でした。
たしか数年前に海外で何かの文学賞をとって、
ハルキ氏がエルサレムだったかで記念講演をした中での話です。
内田樹氏がブログでスピーチ原文(英語)と共に解説しているのをその当時に読みました。

あくまで自分の記憶を頼りに書きますと、そのスピーチの中に、

「卵は壁にぶち当たったら簡単に割れてしまうほど弱い。
 いくら壁が強くて正しくても、そして卵が間違っていたとしても、
 正しいかどうかには関係なく、それが弱いという理由で僕は卵の側につく」

という部分があったかと思います。
壁は(政治的な、あるいは社会的な)システム、卵は個人のメタファです。


これが文学賞の受賞スピーチで世界中に届けられたメッセージである、
という前提で読むと、重いものがあるというか、深遠に感じられてきますが、
これはメッセージでありつつもそれ以前にハルキ氏の生き方について語られているのですね。

それが最初の抜粋を読んで感じたことで、そう感じた理由は、
このエッセイには氏の(小説家という意味では特異な)日常がかるーい調子で書かれていて、
(「筋金入りの中華料理嫌い」な氏が中国へ取材旅行へ行って「食については悲惨だった」話とか、
 続いて足をのばしたモンゴルでは「じっとりした羊の臭い」に滞在中つきまとわれ、
 普段は草食魚食主義なのに村で「目の前で解体された」羊肉を振る舞われて、
 歓待されているのを無下にできず強い酒を呷りながら無理やり食べてやはり悲惨だった話とか…
 かるーい例になってないですが、これらが例のごとく「やれやれ(溜め息)調」で書かれます)
そんな中にひょっこりと出てくる抜粋のような文章が周りから浮いてるなんてことが全然ないのです。


「日本の夏は暑過ぎて仕事にならなくて、日本にいた間はずっとビールを飲んでました」
みたいなサラリーマンが目にしたら「怒りの四つ角」(久しぶりにこの表現使ったな…)が
こめかみに浮かびそうな文章に立ち止まり、理由もなく下線(縦書だから横線)を引かせてしまう魔力は、
当のエッセイを読みながら遭遇してみないと決してわかりません。

…販促オチになっちゃいましたね。


 × × ×


郵便機が砂漠に不時着し、
水も食糧も尽きて彷徨し、
死神に導かれる寸前にアラビア遊牧民に救われる。

 ああ、水!
 水よ、そなたには、味も、色も、風味もない、そなたを定義することはできない。人はただ、そなたを知らずに、そなたを味わう。そなたは生命に必要なのではない、そなたが生命なのだ。そなたは、感覚によって説明しがたい喜びでぼくらを満たしてくれる。そなたといっしょに、ぼくらの内部にふたたび戻ってくる、一度ぼくらがあきらめたあらゆる能力が。そなたの恩寵で、ぼくらの中に涸れはてた心の泉がすべてまたわき出してくる。
「砂漠のまん中で」p.199(サン=テグジュペリ『人間の土地』堀口大學訳)


最近はこの本は2週に一度ちびちび読み進めていますが、
この抜粋部は2週間前に読み、そして今日また読みました。
(併読書数が多いためか、続きを読む時にいつも少し手前から読み始める習慣があります)

今日読んだ時に昨日書いたこと(下に抜粋します)とリンクしたことが特別気になったのは、
2週間前と今とで同じ文章を読んで、感じ方が変わったというこの現象が象徴的で、
その象徴が示すのは、
シンクロニシティの偶然さ、そして読み手が変化する「スパンの短さ」です。

一の中に全体があると見ています、あとは言えないのです。個人の個というのも、そういう意味のものでしょう。個人、個性というその個には一つのまとまった全体の一という意味が確かにありますね。

一を知ること、集団について - ユルい井戸コアラ鳩詣


それぞれの抜粋の下線部が「共鳴した」のですが、
このことについて、何か書けるでしょうか。


水は、摂取することで人体の構成要素となります。
体の何割か(半分近く?)が水分であることが、
他の食物よりもこの事実をイメージしやすくしています。

ところで、「水は摂取すると人体の構成要素になる」と書いた時の「水」は、
概念ではなく、例えば今まさに飲もうとして自分の目の前にある特定の水を指します。
しかしテグジュペリが「そなた(水)が生命なのだ」と言った時、
論理的にはこの水は概念ですが、これは砂漠の極限状態での彼の叫びなのです。

極限状態における個の境界は外側へ発散する…


 × × ×

村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた (新潮文庫)

村上朝日堂ジャーナル うずまき猫のみつけかた (新潮文庫)

人間の土地 (新潮文庫)

人間の土地 (新潮文庫)

ちなみに、新潮文庫のこの表紙は宮崎駿氏が描かれたものです。
風立ちぬ」と「紅の豚」は去年DVDで観ましたが、氏の描く飛行機はいいですね。