human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

体癖論事始

ながいまえおき*1

 人によって、どんなふうに体を動かすか、使い方には違いがある。それに応じて、日常的にどんな姿勢をとっているか、重心がどうなっているかも違う。そのことを精密に観察することをつうじて、外部から内部を見ることができる。
 こうして、十二種の基本体癖は、体の運動の表現と密接に結びついた表現をとることになった。繰り返されやすい体の運動は、三次元のなかでは、前後、左右、上下、捻転で八種類になる。それに、骨盤の開閉、感受性の過敏と鈍感を加えた十二種類が、野口晴哉の創造した体癖理論の基本形になっている
「第六章 身体の森」p.323-324(永沢哲『野生の哲学』)

人間観察が習い症となっている自分にとって、体癖理論はとても興味深いものでした。
『野生の哲学』はその理論の解説書ではないので概要の紹介に留まっていますが、野口氏の活動や言明の中で用いられる体癖理論の適用例を読んで、知らぬ間に(概要程度の記述であっても)これをベースに身の回りの人のことを考えていました。

理論の是非の判断は到底できませんが、少なくとも現時点の僕には、この理論は見通しが全く立たないほどの「方法の広さ」(思考方法?もの(人)の見方?価値観?)を与えてくれる予感があります。
(見通しが全く立たない、とはつまり自分に与える影響の予測がつかないことです。色々な学問分野の各々について、深入りする前からこれに関する妥当な予測がつくことはもちろんありませんが、たいていは自分の思考・知識・経験をベースにした自分なりの(価値観等が変化しないことを前提とした)予測はつくものです)

ただ、この理論を体系的に勉強したいとは思わなくて(今の自分にはそれ自体を目的とした体系的な勉強をする気が、あらゆる分野に対してありません。…とまで言うと強い表現になりますが)、自分が得た理論についての知見をもとに自分なりに考えながら書きたい(書きながら考えたい)と思うだけです。
自分を裏切らない言葉を使うことによって。


というわけで、「体癖論」なるタグを本記事を第1号として作成しましたが、『野生の哲学』からの引用(『風邪の効用』と『声帯入門』が手元にあって、今後読めばここからも引用することになるでしょう)以外は僕自身の話や解釈の話ばかりであることを予め明記しておきます。
読んで下さる方に何かしら資するものがあるかどうかは、各位の判断にお任せします。
つまりここに書かれるのは、読み手が「自分が宛先に含まれているかどうかを自分で確認する文章」であり、別の表現を使えば、潜在的要素はさておきこの記事に明確な想定読者は(僕自身を含めて)いないということです。

そんな文章をなぜ僕自身は書くのか?
それは、書きながら考える間に浮かぶ発想やリンクがありそうだという予感があり、それを知りたい、明示化したいからです。
(ちゃんと書けば、予感があるとは僕の顕在意識の外で形をなそうとする何かが蠢いていることを示すもので、未知と既知の間にあるようなものなのですが、明らかに言えるのは、それらを明示化することで新たな未知を呼び込めるということです。これを顕在意識と潜在意識の領域比を前者の側に広げるなどと考えるのは間違いで、「分かれば分かるほど分からないことが増える」と言われる通りなのですが、顕在意識を広げることは「潜在意識という”無限の闇”を照らすサーチライトの光量を大きくする」こととイコールです
つまり、これから書かれる文章の、僕自身は潜在的な(=事後的に該当する可能性のある)読者に過ぎません


まあ実のところ、このブログ全体がそういう趣旨で書かれていますが…今さらですが。


次の記事で、体癖論を僕自身に当てはめて過去の経験を解釈してみようと思います。
自分の過去をある一貫性に基づいて説明できることは必然を感じさせ、未来の自分の振る舞いまで運命づけてしまいそうな錯覚を惹き起こしますが、説明の一貫性や完全性はその錯覚の根本原因ではなく、その説明に留まりたいという願望に因っています。
これは変化を拒む脳が油断すると引っかかる陥穽です。
という戒めを念頭に置いておく所存です。

いや、少なくとも書いている間は「これで間違いない!」という気持ちでいないと、こんな風に話が前に進まなくなるのでしょう。
厄介ですね…

*1:ところで、このまえおきは「ハードル」を上げたのか、それとも下げたのか? そのどちらとも解釈が可能ですが、「上げた」と捉えることが、「自分が使う言葉を裏切らない姿勢」となります。