human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「変化による美味しさ」について

3つ前の記事↓の続報のようなものです。
cheechoff.hatenadiary.jp

上から、先週日曜の昼食と今日の昼食です。
パンはどちらも最寄りのスーパーで買ったもので、「ゆめちから(というお米)入り塩バターロール×6」と「フランスパン」です。
バターロールは何もつけずに食べましたがちょっと味気なかったので、フランスパン(包丁で一口サイズに切った写真です)にはアールグレイジャムを2個に1個の割合でつけて食べました。

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ストイックに見えますが(昔の自分は随分「ストイック」という言葉を振り回していましたが)、これらは今の生活や身体に合った形態を模索する過程です。
続くかどうか分かりませんが(今はこの「フランスパンver.」をしばらく続けようかと思っていますが)、今日の感触としてなかなかよいのではと思ったので区切りとしてちょろっと書いてみようと思います。


土曜の昼食はこのパン達のかわりにサンドイッチ2切れという構成で、一月前?くらいからこうなっています。
で、土曜がサンドイッチでうまく回るようになったので日曜も同じようにしてみよう(平日と土日でそれぞれのリズムをつけてみよう)と思ったのが先週日曜のことでした。

先週は「塩バター」という元々の味付けに期待し過ぎたせいで味気なさを感じてしまいましたが、今日はジャムをつけつつも「ジャムがなくても全部ぺろりといけたんでは」と思えました。

遅く食べるのがポイントと上に張ったリンクの記事で書きましたが、今日はフランスパン1つ分にだいたい2時間かかりました。
平日に社員食堂で食べる定食は平均で25分くらいかけています(自分より後に席についた人が先に食べ終わるくらい遅い)が、その何倍もゆっくり食べていることになります。
こんな悠長な食べ方が平日のサラリーマンにできるはずがなくて、それが当たり前になると休日も同じリズムで食べることになるので、今自分が(実験として)やっている食べ方はふつうは思い付きませんが、やってみるとなんというか「これがふつうでもいいんじゃないか」と思えるというか、これがふつうだった時代(「飽食の時代」なんて風に言われる前の時代)があったのではないかと思えます。


最初に書こうと思ったのは、ありきたりな言い方をすれば「かめばかむほど味が出る」ということで、何もつけないフランスパンが十分美味しく感じられたことに対する表現になるのですが、ちょっと違う連想もしたのでした。

誰が書いていたか忘れましたが(内田樹氏か鷲田清一氏かな?)、食膳に供される肉や野菜はそれがそのまま食べ物なのではなく、「いただきます」と唱えて初めて食べ物になる、という話を読んだことがあります。
「いただきます」には食べ物のもととなった生命への感謝が込められている(込めてそう言うべきだ)、などと言いますが、これはその話とはちょっと違っていて(いや、その話を含むもっと大枠の話、ですかね)、食事とは「儀式」であるという認識がベースにあります。
(思い出した、言ったのは内田氏でツイッターで呟いていたかもですが、「一つの鍋をみんなが箸を突ついて食べる」のを嫌う若者(というか衛生にうるさくなった時代に育った世代)がいるが、あれは円坐して酒を酌んだ盃を一口啜って回し飲むのと同じ「共食の儀式」で、あれをやらなければ一人で食べるのと同じだ」みたいな話の中の話です、たぶん)
つまり「食事とは本来は複数の人間が一緒に行うものである」という話で、けれど食物が口から摂取されて体内でエネルギィに変化する過程は一人の人間の内部で閉じた現象だから「食事の基本は"孤食"だろう」という反論が思い浮かびそうですがそれは現代的な感覚であって…

ちょっと論理の継ぎ目が分からなくなったので飛ばしますが、
人間が食べられるものが、自然物(自然の中にそのままある状態、あるいはそこから刈り取ったり捕まえたりして目の前に置かれた状態)から食物(人が口に入れることができる状態)に変化する過程には、人類学的には「調理」だけではなく「共食の儀式」も含まれます。
この両者は物質的な変化と象徴的な変化ということになりますが、どちらも「人間の外部にあるものを内部に取り込むために”馴染ませる”変化」という点で共通します。

やっと話が戻ってきましたが、
「よく噛んで食べる」ことはこの「”馴染ませる”変化」の一つで、唾液の分泌やら細かく砕いて飲み込みやすくするやらはもちろん物質的な変化なわけですが、上で共通といったことには「変化」することの嬉しさも含まれているはずで(唐突な…)、つまり(!)よく噛んで食べることには、家族と、あるいは好きな人と一緒に食べることと共通の嬉しさがあるのです。

…なんか言いたかったことが変わっているので(きわめてシンプルに)言い直すと、

 「美味しさ」とは「噛んでいる間に味が変化すること」である

と、フランスパンをゆっくり噛みながら思ったのです(全然違う話でしたね)。

この意味で、「最初から美味しいもの」には欠けている「美味しさ」もあるのだなと思ったり、
昔のフランス(ごっついアバウト)にあったらしい「宮廷で豪華な食事をひたすら食べて、食べたそばから吐いてまた食べ続ける」というグロテスクな貴族の食事は、「美食」がそれだけでは成り立たず、嘔吐的な行為と対になってはじめて「(極めて観念的な)美味しさ」が成立するのかな、と思ったりしました(このグロテスクさを再現したものとして『変ゼミ』(TAGRO)では「吐瀉物風呂」が描かれています。何巻か忘れましたが)。


なぜこんなグロい話に…食事前後に読んだ方、すみません。
そして僕は今から晩飯つくります。
うへー(-_-;)