human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

歴史叙述とは

以上は昨日の夜のツイートです。
時間を捻出すると言いながら、今日は日曜用の本は読まず、朝からずっと昨日の続きを読んでました。
新書だと思って甘く見ましたが…『逝きし世の面影』が文庫本でもある(にもなる)というのと同じことですね。

面白かったです。
昨日のツイートで本書のことを「他人事じゃない歴史の本」という書き方をしましたが、渡辺氏の意見やら経験やらが歴史記述に挟み込まれているというのに留まりません。
今日読んでいて、「筆者の姿勢」を明確に表している箇所を見つけました。
僕には、この一節に感じるところのある人は一冊まるっと読む価値があると思えました。

 親鸞にとって阿弥陀仏が何であったかを言うのは、とうてい宗教者ではありえない私にとって憚りのあることである。信と知には千里のへだたりがある。しかしそのへだたりが埋められぬものであるならば、信なき身には宗教はしょせん縁なき存在にすぎない。しかし、歴史叙述とは、人間のいとなみを人間ならざるものの眼で突き放しつつ認識することであると同時に、人間の一切のいとなみの内部に共感をもって浸透することである親鸞がいかに私のごとき常人を超えた偉大な存在であろうと、彼の考えたことは人間が考えたことである。私は当然、憶測を許されるだろう。
「第八章 一向一揆の虚実」p.242(渡辺京二『日本近世の起源 戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ』)

僕はこの歴史(叙述)の定義に感動しました。
歴史が他ならぬ自分(読み手自身)と関係を持つのは、この点においてなのです。
そして一度「関係」を持てば、歴史が他人事ではなくなる。
(「歴史の私的な解釈による歪曲」という視点はこの「関係」とは別の次元の話であって、少なくとも歴史を学問でなく捉える人にとっては関心の対象になりません。渡辺氏は著書で学問的な正確性、客観性を維持しながらも、根っこは「こちらの人」です)
歴史を自分に引き寄せて考える、共感を持つことで、自分という個が広がる(自と他の境界が曖昧になる)感覚を経験することができます。

著書が労作であるというのは読むべき理由にはなりませんが、読み終えた後のあとがきを読んで、本当にお疲れさまでしたと言いたいです。