human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「高一追想シリーズ」4冊目

先々週と先週はイレギュラでリュウ氏の新書を読みましたが、
今日から「高一追想シリーズ」最終の第4弾、『人と接するのがつらい - 人間関係の自我心理学』(根本橘夫)を読み始めました。
この4冊を今回読む順番はランダムにした(目を瞑って本棚から手に取った本から読む)のですが、何の因果か最後になった本書が「親玉」でした。
なんというか、シンクロ率が他の3冊と比較にならない高さで、「自分のこと」があちこちに書いてあって、高一の時に自分がこの本を理解して読んでいたら果して正気でいられたろうかと思わせる内容だったのですが(幸い今の僕にとってはそれらの大体が「どこかで読んだ内容」なのでその内容自体には驚きませんが)、当時に引いたらしい下線の箇所や書き込みを見る限り、自分のことに照らし合わせては読まなかったようです。
(話それますけど、前にも書きましたけど、分からない言葉にマルがつけてあって、それが本書だと「蹂躙」とか「交叉」という、そういうレベルでした)

ではどう読んだのかというとこれも想像がついて、「教科書的」に読んだのですね。
学校の勉強と同じで、何が書いてあるかあんまりわからんけど読み終えたらとりあえず何かをやった気になる、という。
テスト前なら読んだ教科書の内容(重要っぽい単語とその意味とか)を覚えることもあるでしょうが、そういう外的な必要性がないと、いくら自分で買った本だからといって意識して知識を得たとは到底思えません(大学途中まで本嫌いでしたので)。

だからまあ、意識の届かないレベルで本書の内容が頭に染み込んでいったのでしょうが、恐ろしいことだと思いました。

たぶん来週の土曜に読み終えますが(今日半分読んだ)、その日に「恐ろしいこと」の内容が書けるかどうか。
…書くならきっとニュアンスを変えて「興味深いこと」として書く気がします。

過去の解釈を決めるのはいつだってその時の現在であって、ある過去の一意性は固着でしかありません。
「恐ろしい」と言ったのは、過去の経験そのもののことではなく、今の自分が過去の自分の無意識を想像しようとしているそのこと、あるいはその内容のことです。
そしてその印象は、(実際に来週にするかもしれない)想像をする前の印象なのです。
と、ここまで書いた時点で、これらをひっくるめて「興味深いこと」にしてしまえるのが思考の妙ですね。


飛躍しまくってますが…年末に書く話かもしれないですしね…いや、もう書いたのかな?
うん、前に書いたのとは違う話にしましょう。
書くなら。