human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

経済だけじゃない、『日本経済に関する7年間の疑問』(村上龍)

『日本経済に関する7年間の疑問』(村上龍)を読了しました。

本書は新書なんですが、村上龍が新書を出してるんだと興味をそそられて手に取りました。
経済の本を買ったのは久しぶりで、今の僕は学問としての経済に興味はないのですが(院生時にスティグリッツの経済学入門を新品で買ってノートを取りながら通読したりしてましたが…頭には何にも残ってないですね。興味がないことの照明にしかなりませんでした)、お金はイヤでも関わらざるを得ない現代ですので、生活に関わる経済に対しては必要状の興味があります。
まえがきを立ち読みしたところ、そのへんの興味に応えてくれそうな感じだったので購入し、あるタイミングが合ってその日から読み始めたのでした。

内容としては、経済のことばかりでなく政治やマスコミなど多岐にわたって取り上げられていて、時事ニュースに対するコメントや思考などが書かれ、つまり時事エッセイのような体裁になっています。

実はリュウ氏(あちらをハルキ氏と書けばこうなりますね)の本を読むのは初めてで、小説家の本として小説より先にエッセイを読むのはどうも王道でない気もしますが、もちろんそれはどうでもよくて、結果的には小説も読んでみたいなあと思える人でした。

氏の意見には賛成も反対もありますが、それとは違う次元で、言葉に対する感覚の鋭さがやはり凄いなと思いました。
そして日々のニュースにしっかり触れながらこのような思考ができることに氏の強さを感じるとともに、僕も逃げてばかりはいかんなあと思いました。
もし会社を辞めたら(つい一昨日まで高かったその可能性はだいぶ落ちましたが)新聞とか世間の情報に一切触れずに独自のペースで生活してみたいという興味が(他にもいろいろある中の)一つにありましたが、それは昔三崎亜記がそのようなことをインタビュ記事で言っていたことによるのですが(三崎氏の「異日常小説」は好きです)、リュウ氏のこの本を読んでそこの興味が少し変化しました。
いや、やってみたいという興味は変わりませんが、たぶん実際にそういう生活をすると苦しいのだろうな、という想像が及ぶようになったのです。
それを経て世間的日常に戻ってきてこそ社会性が身に馴染むように体得されるのかもしれませんが…うーん、やっぱり変わってないかもですね。

さておき、氏の思考の安定感、詳しく言うと「まっとうな身も蓋もなさ」がいいなと思いました。
この表現の意味は、身も蓋もなさを前面に押し出して露悪的なんてことがなく、また純粋に客観的思考を目指しているわけでもなく、では何なのかといえば小説家の主体性をベースにした客観性、でしょうか。
本書の扱うテーマの幅広さから「広く浅く」という印象を受けるのですが、そこに後ろめたさは全くない点において氏に憧れます(というのは僕の仕事や趣味の志向も「広く浅く」で、僕は時々その「浅さ」にうんざりしてしまうことがあるからです)。
上で賛成も反対もあると書きましたが、合うと思った意見の力強さに、勇気づけられます。


メモしておきたい箇所をいくつか抜粋しようと最初に思ったんですが、前置きが長過ぎました…書けるだけ書きます。

「村上さんは、日本を元気にするにはどうすればいいとお考えですか?」そういう質問には、「今元気なのはバカだけではないでしょうか」と答えるようにしています。わたしは別に今元気ではなくても、具体的な病気がなければとりあえずは平気です
(…)今、元気という言葉からは、居酒屋やバーなどで、意味もなく大声でジョークを言って大笑いしている集団をイメージしてしまいます。終戦直後のような状況だったら別ですが、今は薬も医者も充実しているので、いつもいつも元気である必要はないと思います。それより自分の仕事をちゃんとこなすほうが大事です。
p.38(03年6月28日「元気?」)

 マスメディアは、どうして「小泉さんに何を期待しますか」と聞くのでしょうか。それは、公約は占拠だけに有効なもので実行されないことが多い、という前提がなければ成立しない質問です。
(…)
期待とは、あ・うんの呼吸に通じる、曖昧な希望です。期待するほうは、勝手に期待して、勝手に失望します。そこに責任というものが生じることがありません。
 大事なのは信頼で、期待などではないと思います。言ったことや約束を実行すれば信頼が生まれ、不履行の場合には信頼が失われ、当事者双方の関係性が決定的に変化します。期待は、単に「外れる」だけで、関係性が決定的に変化することがありません
p.78-79(01年4月30日「期待と信頼」

こう言われてみると、人に期待ばかりして信頼しないのは、「関係性が決定的に変化する」のを避けているからかもしれません。
僕は仕事においては他人を信頼することはありますが(後輩を指導する時とか)、期待はしません。
と言っていいのかちょっと不安ですが…「期待しなかったはずのこと」をされなくても失望せず、されると意外さと共に喜ぶ、というのは期待しているのか、期待していないのか?
人間関係の方は…淡白ですからねえ。

今の日本に顕著なのは、怒りでも悲しみでも絶望でもなく、幻滅だ、ということです。幻滅とは、文字通り幻から覚めて、現実に気づき、落胆することです。幻滅は怒りや悲しみや絶望より悪質な場合があります。怒りや悲しみや絶望は人を駆り立てるエネルギーを生むことがありますが、幻滅は人から力を奪ってしまうからです
(…)幻滅した人間に対して、怒りや絶望感を鼓舞しようとしてもそれはことごとく逆効果となります。裏切られたわけでも、強烈な不信感を持ったわけでもなく、単に現実に気づいただけだからです
(…)幻滅した人間がニヒリズムに傾斜することに、そもそもわたしたちは対処できるのか、それは新しい小説のテーマの一つでもあります
p.120-121(04年6月28日「幻滅」

このテーマ(最後の下線部)には僕もすごく関心があります(保坂和志氏の全小説・エッセイのテーマもこれではないかと思います)。あらゆること(と書くのは言い過ぎですが…)を「考えることから逃げない」でいることは、ニヒリズムと戦い続けるということです。ニヒリズムを乗り越えたり、またそこに落ち込んだり、を繰り返す。それが不毛と思えるか、生きている証と思えるか。

モチベーションのある仕事がなく、その不安と恐怖だけに向かいあっていると、おそらくわたしも不安神経症になるはずです。私が今のところ不安神経症にならずに済んでいるのは、不安や恐怖の対象を設定してそれを潰しているからではなく、不安や恐怖にずっと向かい合わずに済む仕事があるからです
p.140-141(02年12月30日「恐怖の対象」

上に書いた話(「もし会社を辞めたら…」)はここを読んでのことです。結局、まあ一度は経験してみてもいいのでは…という感じですが。

「自分の頭で考える」「自分の足で立つ」というのはどういうことでしょうか。たとえ借り物の考え方であっても、それはとりあえず自分の脳で考えた結果です。わたしたちは超能力者でもない限り、「他人の頭で考える」ことなどできないはずですが、そういうジョークのような慣用句がこの社会にはまだ残っていて、それを平気でプロの編集者やインタビュアーが使用します。大銀行は潰れない、という慣用句が死語やジョークになるまでには、まだ長い時間がかかるのかも知れません。
p.224(03年2月3日「自分の頭で考える」)

僕も当たり前にこの表現を使っていて、リュウ氏に改めて言われてびっくりしました。言葉尻をとらえた、という生易しいものではないと感じました。というのも、こういう言葉によって「考える」という言葉の意味が曖昧になっていくのですね。通じる人には分かる言葉というのは、色々便利な機能があって、本を読む人間は大体その便利さばかりを享受するのですが、長所の裏には必ず短所があります。符丁として機能する曖昧さは仲間意識の涵養に役立ちますが、それによって集団間のコミュニケーションに微妙かつ度し難い齟齬を生じさせもします。
一人で読書しているだけだと当然、こういう意識の仕方はできません。

 選択肢はそれほど多くない、ということをメディアに説明するのは簡単ではありません。「今度の作品で、○○をテーマに選んだのはなぜですか」という質問にも、前提として、多くの選択肢があって、その中から選んだというニュアンスが含まれています。多くのメニューの中から好きなものを選ぶというのは多分に趣味的です。金・ビジネスが絡む場合、また目的がはっきりしているときは、常に選択の幅は狭く限られているものです
p.229-230(03年7月21日「選択肢はそれほど多くない」

これは僕が最近よく考える「必然」と非常に密接に関係しています。
たとえばここでいう「説明」を自分に対して明確にできる(ようになる)こと、これが最近書いた「必然の活性化」の一つの方法ではないかと今書きながら思いました。