human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

芸術と反権力

は似ているな、と思うリンクがありました。
芸術は意図を超えて反権力的だし(例はいっぱりありますね)、反権力は時に芸術性を帯びる(0円で国家作った人いましたね)。

言葉というのは人間にとって厄介なもので、表記のうえではそれが否定されていてもあるひとつの言葉を書いてしまった時点で、完全な否定つまり消去ということはありえず、否定していてもそれが「ある」ということを前提として受け入れているということがありうる
(…)
あるいはたとえば国全体が戦争に向かって進んでいるというような大状況の中では、戦争を肯定する言葉も否定する言葉も、読者の関心を戦争に向けてしまうという機能において、同じだけ戦争を肯定してしまうことになる。自衛隊イラク派兵に反対しても憲法第九条を含む改憲論議に反対しても、それを話題にしてしまうかぎり大きな流れを変えることはできない。だいたいマスコミも書き手もほとんどすべての人たちが大状況に依存して仕事をしているのだから、文字による表記で反対してみてもその外に出ることはできない。(それらの記事の中に、いままで選挙を棄権していた五〇パーセントちかい人たちに、「次には投票に行こう」という気持ちを起こさせるものはないのだ。)
いったん提示されたものを消去することはできないという言葉の機能というよりも「宿命」とか「限界」と言った方がいいが——に忠実であったら、反対するためにも、否定するためにも別のことを提示するしか方法はない。芸術家は社会的に価値のある存在である必要はないが、社会の側から芸術家の存在意義を問うてきたら、返答は、社会の流れと別のことをしていることが芸術家の価値なのだ
保坂和志「小説をめぐって(十四)」(「新潮」2005年3月号)
http://www.k-hosaka.com/nonbook/nonframe.html

私たちにとっての権力は、私たちが挑む反権力の課題がどこにあるのかを理解するうえで助けになるかぎりにおいてのみ、関心の対象になるのです。権力それ自体についての研究、反権力の課題への取り組みや企てから分離された抽象的な意味での権力を研究することは、権力を積極的に再生産することにしかならないのです
ジョン・ホロウェイ『権力を取らずに世界を変える』p.84

権力とは関わりたくないな、というのが日常的姿勢なのですが、
そう思いながら安穏としていられるのは権力に守られているからで、
そこから放り出されたら「戦いはもう始まっている」のでしょうね。

芸術も戦い、なのでしょうか。