human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「どちらの生き方を選ぶか」?

 その結果、抑ウツ傾向のないふつうの人は七五パーセントも当たると当てた(傍点)と思い、何の根拠もないのに、状況をコントロールしていると思うのです。しかし、抑ウツ傾向の人はそうではありませんでした。たとえ七五パーセント当たっても、状況をコントロールしている、とは答えていません。現実を直視しているのです。
(…)
 このライト当てクイズを広く解釈すれば、世の中の大半の人たちは、自分の行動や周りのことを自分でコントロールしている、と勝手に思い込んで元気に生きている、しかし、抑ウツの人たちは現実の世界を知っていて、その部分は自分の力ではほとんどコントロールできないことを知っているために暗く生きている、ということになります。
「どちらの生き方を選ぶか」p.224(齊藤勇『自己チュウにはわけがある』)

この本は今日読了しました。
今日読んだ部分(本書の後ろ半分)は特に昔、最初に読んだ高一の頃を想起させる箇所にいくつも出会いました。
とはいえ思い返すと言えるほど鮮明な記憶はなく、高校時代の状況の断片が浮かんだり消えたりするのを眺めながら「あの頃の自分は何を考えていたのだろう…」と想像した、ということです。
(話逸れますが昔読んだ形跡がちゃんと残っていて、別の本には几帳面にも蛍光ペンで定規を使って線を引いたりしてあるのですが、本書には分からない単語にシャーペンで丸がつけてあって、それが「迎合」とか「猥談」とかで、なるほどそういうレベルか…と興味深かったです)


長くなりそうなテーマですが端的に書きますと…

高校生の僕はこの本(の例えば上に引用した箇所)を読んで、「難しいことはあまり考えずに生きていこう」と思ったのではないか。
それは多分院生になるまで続いて、しかし読書に没頭するようになるとその○○(意志?縛り?)が解かれた。
大学3回生の時に「今まで自分は何を考えて生きてきたのだろう」という面倒な疑問に囚われ、答えが欠片も出てこずに愕然とした経験があるのですが(その経緯は…猛烈な忙しさから突然解放されてすることがなくなった時のことでしたか)、もしかしてあれは「正気に戻った」経験だったのではないか? 問いの答えが結果的に日本縦断チャリ旅行(大阪〜北海道)になったのはさておき、その時に「生き方を変えよう」と思ったのは実は「生き方を戻そう」だったのではないか?

僕はもともと「こちら」が向いていたような気がするのです。
そこから変わることはできない、とまでは言いませんが、向き不向きを乗り越えるには相応の、いや相当の努力を要します。

そしてその選択権は、僕ではなく「必然」が握っているのだと、今の僕は思っています。


…端的ではなく、意味深を装った歯抜けな文章になっちゃいました。
どこかでもう一度、ちゃんと掘り下げないといけないですね。


あ、因みにですが、本書の最後の一文字から、著者の齊藤勇さんという人は春日武彦先生に似ているなと気付きました。自分を精神分析あるいは対人心理学のまな板にのせて刻んでいく、その料理人に躊躇はあっても取り繕いはない。齊藤先生の本書は入門書というか対人心理学の紹介書なので物腰が柔らかいですが、春日先生の著書に露骨にでている「それ」が、そういえば本書のところどころに顔を出していた。
僕はこういう、業を背負うというのか、「やむにやまれぬ人」を信じます。

欲しいのは、
「自由の先の不自由」か、
「不自由の中の自由」か。

 勝手な自己中心性も、それが過剰でなければ、人生を楽しく、前向きにする大きな力になると思います。自己中心バンザイではありませんが、人は、いずれにしろ、自己チュウなところがあります。人も自分も自己チュウなのですから、それをあまり悪者にしないで一人一人の人生を前向きにしている力だと考えてしまいましょう。
 さあ、いまから、ポッシブル・セルフ、可能性に賭けて楽しい気持ちで生きましょう、か。
p.227