human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

観察主義者の素地について

『人間関係』(加藤秀俊)を今日から読み始めました。

この本は前に書きましたが、高一の時に一度読んだ本です。
当時の出来事や考え方を思い出すかなと思っていましたが、文章としては「読んだことがある」と思わせる箇所は全くなく、グリーンの蛍光ペンで几帳面にもまっすぐ線が引いてある所(つまり高一の僕が引いたわけですが)も「そこ?」という感じでした。
まあ細かい所の記憶なんてあるはずはないですね。

それで読み進めながら、違和感のあるところがあまりなくて、言葉の定義なんかとしっかり書いてくれる箇所に安心したりして(「理解」とはなにか、「人を見る目」とはどういう能力か、など)、そうか当時は今の読書とは全く違う読み方をしていたのだと気付きました。

簡単にいえば、今はほとんどの本を読む時は自分の価値観を一度通過させます(小説はちょっと違います)が、当時は本に書いてある内容を「事実」あるいは「そういうもの」として価値判断をせずに吸収もしくは拒絶していました。
吸収は自分に引き寄せて考えずにできるが拒絶はそうではない、と思えますが、ここで言うのは「理由を明示化しない感覚的な拒絶」です。
この考え方はこういう点で面白い、あるいはこの点が黄に食わない、といった自分の価値判断に対する分析がなかった。
たぶんそれは(生徒としての)教科書的な読み方だと思います。

こう書いたのはもちろん今の自分が当時の自分の読み方を想像してのことですが、では今日あらためて(十年以上ぶりですね)読んでみて気付いたのは、今の自分が読書でいつもやっているその「自分の価値判断に対する分析」をしようと思う所がほとんどなかったことでした。
それはきっとこの本が当時の自分と合っていてうまく吸収できたからか、相性なんか関係なく鵜呑みにしたからか知りませんが、本書が僕の人間に対する考え方の基礎の一部になっているということです。
まあこの本は高一の頃に読んだ残り3冊と比べて最も穏当だと思うので、特に驚きはありませんが。


もう一つ考えたのは、人間関係に関する思考が実際の人間関係(が問題になる場面)にどういう影響を与えるか、ということでした。
恐らく高一の僕は実際の人間関係に悩んでこそ本書を手にしたのでしょうが、記憶から確かに思われるのは、それほど深い人間関係を形成する(つまり特定の人と密に付き合ったりする)ことなく一人で勝手に悩んでいました。
他人と深く付き合うことなく、その仕組みを頭で(抽象的に)知ると、どうなるか。
興味がなくなることはありません。
でも、臆病にはなるだろうと思います。
全く未知なることには成功も失敗も(当人にとって、事前には)ありませんが、経験の伴わない知識でも手にしていれば、自分が実際には初めてやることに対して予想がついてしまう。
その予想が正確かそうでないかは問題ではなく(大体は正確ではありませんが)、当人が自分が行動する前からその行動を評価しようとする(せずにはいられない)態度が問題なのです。
そして、自分がせずにいた行動を他人がしたのを見た時に「なるほど、これはそういうことか」と評価してしまう。

なんとなく、高一の僕はこの本によって観察主義者の傾向を強くしたような気がしました。
その傾向はもっと小さい頃から持っていたようだから(幼稚園の頃に、砂場で長いことじっとしていることがよくあって何を考えているか全然分からなかった、という昔話を祖母に何度も聞かされました)、この本で目覚めたというよりは、この本を読んで安心したという方が近いのでしょう。


最初に読んだ記憶はないとはいえ、こういうジャンルの本は今ままで特に好んで読んではきたので、内容として新しいと思う箇所はあまりなく、当たり前のことが書かれていると思えます。
けれどその当たり前を文章にして読んでみて、「"当たり前"に対する見方」が更新され、深みが増すようにも思います。
この感覚を大切にしつつ、後半を読んでいこうと思います。


日常生活を大事にしたい。
日々の小さな変化を見逃さずに感心したり発見したりしたい。
そのために、当たり前のことを当たり前にこなしながら、それらが当たり前であることに関心をもつ。
どんどん新しいものを手に入れ、新しいことに手を出さないと変化し続けることができない、わけではない。
いつも思うのはやはり、自分と環境(身の回り)の関係。
自分が変わっても、環境が変わっても、「関係は変わる」。
「関係」は抽象的なものに思えるがそうではなく、しかしそうではないことを実感する前の理解として、その抽象性に触れることが大事なのかもしれない。

「理解」すなわち「わかる」ということは、こんなふうに考えてみると、ふたりの人間のあいだの問題というよりも、ひとりの人間の内部での、”ふたりの自分”のあいだの問題であるようにも思える。自分の内側にとりこまれた”もうひとりの自分”と”こちら側の自分”とのあいだには緊張関係、あるいは緊張関係というよりは弁証法的関係がうまれるのだ。”もうひとりの自分”がもちこんできた他人の記号、そしてその背景にある他人の内部の状態、それが”こちら側の自分”とかかわりあって、もうひとつ高次の内部の状態をつくり出すこと──それが、人間的意味での「理解」なのだ。
加藤秀俊『人間関係』p.82

抜粋は自分と他人のコミュニケーションの話ですが、他人を広げれば環境になります。
そして、抜粋にある「"内と外の関係"は"内と内の関係"でもある」に加えるとすれば、「それは"外と外の関係"でもある」。
「こちら側の自分」と「もうひとりの自分」を見比べる「第三の自分」が"内"だとすれば、前二者はどちらも"外"になりますね。

…何が言いたいのか。
主体が自分の外部に関係を想定した瞬間、自分を含むより大きな関係に取り込まれざるを得ない、という入れ子構造の話でしょうか。