human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

記憶の浮上を待つこと

『子どもが子どもだったころ』(毛利子来・橋本治)を読了しました。
自分が読んだのは↓ではなく単行本の方ですが。

子どもが子どもだったころ (集英社文庫)

子どもが子どもだったころ (集英社文庫)

本書には身につまされることが多くて、「その通りだ!」とか「そうだったのか…」とか思う箇所がたくさんあったのですが、その箇所(文章)は両氏が子どもの頃の経験だったり今(本書の初版は1998年)の日本社会を見ての分析だったりと具体的なものから抽象的なものまで幅広くあるわけですが、そこを頷いて読む自分の頭の中には(あるとすればもちろん親ではなく子としての)経験が思い返されるかといえば(自分の経験上不思議ではないのですが)全然ありませんでした。

自分の小さい頃の記憶が中学以前の分がほぼ奥底に埋もれてしまっているのはたぶん高校くらいからずっと変わらなくて、それはいいことかもしれないしよくないことかもしれないと敢えてそこを掘り下げるようなことはあまりしてこなかったのですが、とはいえいくつかの自伝的文章(わかる人は何か思い当たりそうですが、橋本氏のほかには鶴見俊輔氏や岸田秀氏など)を読んで意識してきたことで、そして今回本書を読んで改めて認識したことなんですが、その埋もれた小さい頃の記憶は「そのままにしていてはいけない」と思いました。

何かのきっかけで一気に映像(感覚?)がよみがえってくることもあるかもしれませんが、そうなればよしとしてそうならなくとも、当時の記憶がないという事実はずっと背負っていかなくてはならない。
(そうしてその事実を忘れずにいることが記憶をよみがえらせるきっかけになることもありえますが、ここで強調したいのは別のことです)

もしその事実を忘れて自分が親になった時に、自分の子どもが今の僕と同じ思いをすることになるかもしれない、と予感したのです。
それが自分の子どもとってよいか悪いかは全く想像つきませんが、少なくとも僕は進んでそうしたくはありません。

本書にもありましたが、自分の中の「子ども」を発揮せずに、自分の子どもを理解するのはかなり難しい。
今の僕自身にも「子ども」のある部分が息づいているはずですが、昔の記憶はその内なる「子ども」の姿を明らかにする大きな手助けとなるに違いありません。

時間はかかるでしょうが、背負い続けましょう。
それは、環境を整えたうえで待つ、ということです。
記憶が浮かび上がってきた時、僕や僕の周りの人々を否定しなくてもよいように。

「子供に対する理解がない」ということがどんなことなのか、それを大人はあんまり実感してませんし、その大人がすべてのイニシアチブを握っている以上、子供は自分でもよく分からないうちに、「うん」と、とんでもないことを納得してしまう。そうしたこを”傷”として思い出すのは、そうそう簡単なことじゃないから、きっと”子供に関する事実”は、タイタニック号にぶつかる氷山のように、水面上の一部しか見えないまんまなのだと思います。この本もそういう意味で、まだまだ一部だとは思いますが……。
p.254 橋本治氏のあとがき