human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

人間理解と読書の数珠繋ぎについて

Veloce本(毎週土曜午後にVeloceで読む本)として今日から『問題は、躁なんです』(春日武彦を読み始めました。

自分の本棚から手に取ったきっかけはちょっとしたものだったのですが、今日読み始めてみると想定した以上の手応えがあって驚きました。

春日氏も僕が「著者買い」(本の内容に関わらずその著者ならとりあえず買っておく)する著者の一人で、きっかけはこれも内田樹氏の影響なのですが(氏が昔のブログで「西の名越、東の春日」と何度か書いていて、この二人の精神科医と仲が良いようです。関西の方は名越康文氏で、こちらも何冊か読んでいます)、著者のパーソナリティを意識して何冊か読んでいると、読む前から、たとえばタイトルと表紙裏の抜粋文だけで中身が大体想像できます。
もちろん読む前から細かい内容がわかるわけはないので読んで面白いわけですが、大体の中身が想像できれば自分が読む手応えも想定できるわけです。
まあその想定というのも「ハズレではない」というスクリーニングの意味でしかありませんが…

で、春日氏の本には自らの診察経験から豊富な症例とその分析が淡々と書かれているのですが、その「淡々と」というのが内容の重さと釣り合っていなくて、いやそれは悪い意味ではなく(良いかどうかも微妙ですが)、するりと読めてしまうところをふと立ち止まってよく考えてみたりなんかしちゃうと世の中の常識がぐらついてしまうようなことが起こるのですが、それは精神科医が正常と異常の境界で仕事(あるいは加えて生活)をしているからで、しかしその境界での出来事をするりと語れてしまうというのは実は狂気の沙汰なのです。

教育の場も一つの境界ですが、やはり人間を知るには境界から目を背けてはいけなくて、それがひいては時代認識にもつながります。
あるいは人間理解は、隣人や職場の人間の理解にもつながります。
それが関係の改善に向かうとは限らないのは、関係の改善の意味まで教えてくれる(考えさせられる)からです。

面倒なことですが、「人間理解に関する面倒」はきっと面倒の根本で、これをおざなりにしてしまったら、そしてそれを自覚してしまったら、自分のいいかげんさにきっと自己嫌悪に陥ることでしょう

僕は、その自己嫌悪がスタートだと思っていますが。

(自分で書いといてなんですが、何のスタートでしょうね…読書の?)

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実は話が逸れていて、最初に「予想外の手応え」と書いたところから、この本を読むきっかけを思い出そうと本記事を書き始めたのでした。

まず金曜に読んだ『さびしい文学者の時代』(埴谷雄高×北杜夫で北氏が激しい躁鬱病であるという話をふと思い出して春日氏の本を手にとったようです。
そしてその対談本を読んだのは、今年の夏休み課題図書に『死霊』(埴谷雄高を選んで月〜木のうち丸3日を使って読了したものの(実は僕が持っていたのが完結してない巻だったので厳密には読了ではないですが)埴谷氏の本はこれが初めてで何か手がかりが欲しいなと本棚と漁って見つけたからでした。
その『死霊』を今回読もうと思ったのは、普段読みそうもない本を選ぶという基準を満たしたうえで、たしか(…と曖昧に書こうとして、ちょっと待てよと調べてみたので確かですが)『何でも僕に訊いてくれ』(加藤典洋学生運動について書かれた箇所に『死霊』のことが書かれていた(のを「夏休み本」選定の時に思い出した)からでした。
加藤氏のこの本は…ブックオフオンラインで「著者買い」したのでした。

 (加藤典洋埴谷雄高北杜夫春日武彦

こうして本の数珠繋ぎをしてみて面白いのは、一冊の本がその内容を越えて広がるところですね。
本と本がつながるのはある共通したテーマなり記述を媒介してのことですが、そうして発生したリンクは、その二冊の本の「それぞれ単独で読んでいただけではつながるはずもなかった内容」同士を結びつける媒介ともなり得ます
それがある本の内容に(自分がただそれを読んで、という以外の)複数の解釈をもたらすことにもなって、そしてその「複数の解釈」はもちろん、読み手たる自分が手に入れることができる。

これも面倒な話に聞こえるかもしれませんが、そう聞こえるとすればそれは「何かを知るために本を読む」と思い込んでいるからです。

時に、いや本来は、本は「自分が何を知らないか」を知るために読むもの
そう思っていれば、この経験はとても面白いと感じられるはずです。