human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

着地の衝撃を上半身で和らげたい話など

今朝、風邪…というか体調をちょっと崩しました。

何か心細い感じがして、自分を覆っているものが足りない気がして、
早朝目が覚めるとタオルケット1枚を被って横向きに縮こまっていました。
まず寒いと思って、季節がなくなって、部屋がすごく無機質になっていて、
そんな部屋に自分が溶け込んでいた(空間と身体の境目が感じられなかった)。

とはいえ起きてすぐクーラーが付けっぱなしだったことに気付いて、
昨夜「寝入る寸前に除湿を切ろう…」と構えながらうとうとしていたのを思い出し、
風邪ひいたかなあとちょっと落ち込み、少し経ってから「それはそれで」と思い直す。
体調を崩すと日常で無理していた身体部位が痛むので、良いバロメータになるのです。

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今日はイレギュラーで歩く日だったので、土曜みたく2時間ほど歩きました。
やはり熱っぽかったので一日を通して頭の回転が若干鈍かったです。
が、歩いている間はいつもの思考が鈍った分だけ身体に集中できました。
今日は歩行姿勢への(局所的な)意識を減らしながら歩く実験をしていました。

目を瞑りながら歩いた方が身体全体を漠然と感じやすくなります。
その漠然とは、身体全体が歩く方向へ平行移動している、というもの。
僕は臍下丹田を意識しますが、それか胴体でもいいのですが、
歩いている間に上下方向の変位(端的には「揺れ」)がなければ平行移動と感じます。

もちろん足は地を蹴り、手は胴体の横で前後に振られているわけですが、
それら手足は意識しない、「身体全体の漠然感覚」からなるべく外したいのです。
ただ手の振りが胴体の動きと同調できなかったり、足裏が地面の凹凸を感じたりすると
手や足を個々に意識してしまうことになるため、一般道ではあまり長く続けられません。

これをうまくやれば全く疲れずに歩け…たりしないかな。しないか、な?


もう一つ歩きながら試行錯誤していたのは、身体全体を使って歩くことです。
以前に「腰から下だけで歩かない」とか「肩で歩く」とか言ってた話の具体化です。
後者は「肩で踏み込む」(足の着地と同じタイミングで同じ側の肩を入れる)のですが、
これをすると「足裏と肩の間(の身体部位)」は具体的にどう機能しているのだろう…。

ということを考え、感じようとしながら歩いていました。
…この点も今日特に成果はないのですが、わからないのはやはり上半身の使われ方です。
(「使い方」ではなく「使われ方」と書くのは、これが全然意識できないからです)
腰や背筋(背骨)や肩は、足の踏み込み・蹴り上げにどう寄与できるのか。

前に「足裏と肩の間」を足(だいたい膝より下)に喩えて考えたことがあります。
そのこころは、かかとから着地すると着地の衝撃が足の上の方まで伝わってきますが、
土踏まずより先の部分から着地すると足首等のバネ作用によって衝撃が吸収できます。
背中や肩もこれと同様にバネとして機能させれば、歩行時の足への負担を減らせるはず。

たぶんこの考えは間違ってなくて、そして実はもうある程度は「肩歩き」によって
そういう使い方がされている可能性もないとは言い切れません。
知らないところで勝手に行なわれているなら歩くうえでありがたいだけの話ですが、
やはり興味をもって実験を行う立場からするとその仕組みはぜひ解明したいところです。

まあ解明という考え方もおかしくて、正しくは「何らかの仮説が立てられれば」ですね。

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風邪の話をほっぽり出していましたが、体調不良によってやはり足が痛みました。
膝の裏やふくらはぎや足首など広範囲にわたりますが、これまでの傾向と少し違います。
それはたぶんバランスボードのせいで、あれは思った以上によい運動になるようです。
足だけでなく全身が使えていればなおよいのですが(首凝り治らないかな…)。

そしてそれらの痛みは歩いているうちに引いていくという点が、とても示唆的です。