human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

資本主義の「次」を待つ

「資本主義は富の偏在を内側から補正するような『何か』を生み出すことはないのか」。ですから、そこにもし、可能性があるとすれば、その核心は、これを駆動するのが、やはり「死すべき」存在であるところの人間だというところにあるでしょう。資本主義はシステムとして、稼働し続ける。しかし、これが、人間の許容の限度を超える結果を恒常的に生み始めたら、内側から補正するような動きが、それに堪えられない人間の側から、出てくるのではないでしょうか。そしてそれをささえるのは、この永続機械たる資本主義の前提たる欲望の永続生への、死すべきものとしての人間の、かすかな違和感、ではないでしょうか。それが、第一回目の補正方法だった、革命という外から補正する形での失敗を受け、今度は自由という内発性を否定しない「内側から補正する」形を取るとすれば、それが、「資本主義が富の偏在を内側から補正するような『何か』を生み出す」ということなのではないでしょうか。
加藤典洋『何でも僕に訊いてくれ きつい時代を生きるための56の問答』p.46

引用の「人間の許容の限度」も「かすかな違和感」も、
身の丈感覚を維持し、身体性を賦活してこそ気付けるものと思います。

 「富の偏在」による二極化、その両極のどちらにも属さないようにする。
 取り立てて大きなことをせずとも、身の丈を意識して、日々の生活を着実にこなす。

「待てば海路の日和あり」には、何もせずに幸運が転がり込むのを待つというのではなく、
海における必要最低限の注意(天候や風を読むとか)を怠らないという前提が含まれているように思います。

 世界は(簡単には)変えられないが、世界の変わり目に気付くことはできる。
 世界を変えたい人間と、自分を変えたい人間は、実は同じなのかもしれない。

「人間の許容の限度」は、育ちが変われば広がるものでもあります。
たとえば幼稚園に通う前からタブレットPCを使いこなす、とか。
しかし、環境に適応できる能力の基盤にあるのは、生理的に耐久力が予め決まっている身体です。

身体を基準に考えれば、身体を無視した環境への適応は、
上に書いた両極のどちらかに向かう気がします。
これは飛躍していて、うまく説明できませんが。

加藤氏のこの文章は「待つことも立派な行動のひとつだ」とあらためて教えてくれます。

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というわけで、バランスボードを買いました。
完全なる後付けですが…今日届きました。
またタグが増えそうです(いや「身体論」に入るかな)。
しばらく遊んでみて、気付きがあればまた何か書きましょう。