human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「夢十夜」の夢を重ねていく

今日は会社のPCを新しいのに交換するついでに有休をとりました。
知財は一日中PCにかじりついているので、これがないと会社で何もできません。
デュアルのディスプレイ(片側)やら色んなソフトやらがフリーズすることがよくあって、調べたら所属グループ内で一番PCが古かったのでした。
というわけで来週出勤した時にはサクサク仕事ができるはずです…最初はまた適応し直しですが。


今日も例のごとく本を読んで過ごしました。
『自分の頭で考えること』(茂木健一郎×羽生善治)を読了し、
夢十夜 他二篇』(夏目漱石)の「夢十夜」を読みました。
前者を読み終えて後者を手に取った時に「この取り合わせは何だろう…」と思ったのですが、
いざ読んでみると縁があったようでこの二冊の間にリンクがいくつか生まれました。

先に記憶の新しい「夢十夜」から書きます。


夢十夜」とは短編集で、十の夢(または夢らしきもの)について書かれているのですが、今回(といって初回ですが)は特殊な読み方をしてみました。
第一夜を読んでから次に第二夜を読む前に、第一夜の印象的な場面(というか記憶に残ったあらすじ)を想起する。
その次に第三夜を読む前には第一夜と第二夜の場面を順に想起する。
そのようにして、「夜」が進むごとにそれまでの「夜」が繰り返されるように読みました
(なので、第一夜は一度読んだ後に九度想起されたことになります)

なぜこんな読み方を思いついたかといえば先に読んだ『自分の頭で考えること』の影響だと今は気付いていて、その対談本の中にたしか羽生氏が「どこにいても(将棋のことを思い浮かべることで)自分の世界に入ることができる」(と茂木氏がどこかで聞いたか読んだかした)という話があって、静かな環境でなければ想像を阻害される僕にはその「強度」が羨ましいなあと思ったからでした。
いや、ネットワーク(インターネットなどの情報網)に繋がらずに自分の頭だけで考える時間が現代人にはほとんどない、だが棋士の対局の時間はずっとそれで、頭の使い方も現代の一般人とは全然違う、といった話を読んで「自分もそっち側にいたいんだよな」と思ってちょっとやってみようと思ったからかもしれません。

まあそれはよくて、この読み方をして面白かったのは、短編によっては同じ「夜」を想起するごとに(想起できる)内容が変わることでした。
それはお互いの短編同士の連関(作者が十の夢として続けて書く以上リンクがないはずがなくて、読者はそのリンクを具体的に指摘できなくとも影響を受ける)もあるし、「同じことを繰り返したくない人間の習性」(この話も対談本にありました)のこともあるでしょう。
そしてこの想起するごとに内容が変わることは、一度文章を読んで記憶したと思った内容が(少なくともアウトプットの領域では)形を変えることを意味していて、考えればこれは当たり前なんですが普通これを実感するのは長い時間をおいてのことで、一日のうちに何度も経験するのはスペクタクルというかめまぐるしいことだなと思いました。

その想起の中で対談本とのリンクが生まれたのですが、以下その話を少し書こうと思うので必然的に「夢十夜」の内容を書くことになるのでご注意ください。



まずは自分用(整理のため、ということです。第○夜という数と内容には意味としてのリンクがないので、順番に書き出さないとわからないのです)に、十夜にひとこと(=自分が想起しやすい)マークをつけてみます。
(これも読み返さないで想起で書いているので記憶違いがあるかもしれません)

 第一夜:百合
 第二夜:青坊主
 第三夜:侍の悟り
 第四夜:蛇
 第五夜:篝火
 第六夜:仁王像
 第七夜:陸の見えない船上
 第八夜:鏡
 第九夜:母子を繫ぐ細帯
 第十夜:豚

書きたいことだけを書きましょう。
リンクというのは、これらの「夜」を想起するうちに対談本の内容を連想したことを指しています。

『自分の頭で考えること』には現代社会が視覚偏重であることが書かれています。
羽生氏がその話題に関して、将棋盤を使わず頭の中で駒を進める将棋(なんと呼んでいたか忘れました)をやる時に、中空や関係のないものを見てやる時よりも目を瞑って真っ暗の状態でやる方が難しいと言っていました。
それは駒でなくても目に見えるものが何かあれば(駒に?)見立てることができる、やはり視覚に頼る部分は大きい、というような話でした。

夢十夜」の第二夜では、男が盲の息子を背負って歩いている場面から始まります。
息子は目が見えないのに感覚が鋭敏で、今田んぼを歩いていることも、父が自分を恐れていることも分かっている。
目が見えなければ視覚以外の感覚が発達するものですが、男はそんなことも考えずにただ恐れ、色々と気付かぬうちに息子を捨てようと急いている。
また第八夜では、男が理髪店で髪を切ってもらっている間に、店の前の出来事を鏡ごしに注視する場面があります。
豆腐屋が喇叭を吹きながら売り歩いていて、鏡に映る豆腐屋は(喇叭を吹いているために)頬が蜂に刺されたように膨らんでおり、その姿のまま視界を離れて、男は豆腐屋があのままずっと頬が膨らんだままなのではないかと心配になる。

どちらの話も想起するうちに上の視覚偏重の話と繋がったのですが、なんというか偏重というより「視覚だけを取り出した」ような感じが今はします。
あまりうまく表現できませんが。

あとは感想なのですが、第十夜だけそれまでと趣ががらりと変わったように思いました。
「豚」が出てくる場面は感情移入できれば恐怖するのですが僕は思わず笑ってしまいました。
キャッチャー・イン・ザ・ライ』(J・D・サリンジャー)のホールデン少年の将来の夢を連想したのですが、まあキャッチャーどころか真逆ですよね。
第十夜は全体がユーモラスなのですが、その終わり方は『草枕』と同じで「非人情」でしょうか。
あ、ユーモアと非人情は重なるところが大きいのでした。

+*+*+*

夢十夜」はずっとこの曲↓を頭に流しながら読みました。
ずっと昔に聴いた曲で(2008年といったらニコ動の初期の頃ですかね)、この小説と何かしら関係があったという曖昧な記憶しかなかったのですが(とはいえ(?)もともと「次の祝日に「夢十夜」を読もう」と思ったのはこの曲が最近ふと頭の中に流れたからでした)、改めて動画を見ると第一夜のオマージュだったのですね。
僕としては全編とも雰囲気に適っていたと思います。