human in book bouquet

本格的に本と関わっていきます。

ジェイムズ、保坂和志、村上春樹など

『現代文学のレッスン』(石川忠司)を読み始める。

本書を手に入れたきっかけは『草の上の朝食』(保坂和志)の文庫版の解説を石川氏が書いていて、それが面白かったからです。
目次を見ると保坂氏に1章分が充てられていて「おお!」と思い、とりあえずいつも通り最初から読み始めました。

その最初の章は村上龍氏にスポットが当てられていました。
僕はまだ村上龍の本は読んだことがなくて、自分の「著書感覚」(村上龍氏の、です。特定の作家の本を何冊か読んでいればなんとなくわかってくるもの)がないままに批評を読むことになったわけですが…
この章の感想を一言でいえば「だから何?」でした。
文章を読んでいてこういう疑問が浮かんでしまうのは、「せめて内容は得るところがあってほしい」という気持ちの表れで、つまり内容以外で惹かれる部分がなかった。
書評や文芸批評の存在意義としては内田樹氏のスタンスを知ってからそれに同意し続けていて、何かといえば「書評を読んでその紹介されてる本を読みたくなればそれは良い書評だ」というものです。
で、まあ端的にいえばこの章の批評は村上龍作品に対する魅力を全く惹起しませんでした。
批評家としては自分が組み立てた論理に断定を加えないと立場がないのかもしれませんが、読者がその論理に共感が持てなければ、もうとりつくしまがない。
うーんこんな人なのかしら、と思いながら第1章を読み終えました。

で、第2章が保坂氏の章で、しかしなんと状況は一転して、これは最初から最後まで面白かったです。
同じ人が書いて、同じ論理や文体を使いながらこの差はなんなのだろう、と驚きました。
その答えはちょっと考えて、石川氏は「論理できかせる人」ではないかと思いました。
そういえば僕が好んで読む本の著者は文体が好きで読み始めた人が多くて、内容に興味がなくても面白く読み進められたりして(その内容が記憶に残らないのがいい証拠かもしれません)、そういう感覚が僕のデフォルトになっていたので今回驚いてしまったのだと思います。
まあそれはよくて、この章が読みやすかったのは著者が保坂氏を誉めまくりだったというのもありますが、「わかるわかる!」という箇所が多くて、また保坂文学の魅力を論理的に語ってくれる人がほとんどいない(と僕は思っている)ので、新しい視点だと思った部分も含めて「なるほど…」と感心し切りでした。

保坂和志にとって考えるとは、そこに普段の生活のリズムを、ためらいや停滞を、脱線や逸脱を、そして何よりもあえて言葉を超えたもののための「スペース」を持ち込む営為にほかならない。要するに、保坂和志の「思弁的考察」とは、思考の形をとった「生活」なのだと言っていいだろう。具体的もしくは抽象的に「日常生活」について考えられた思考ではなく、あくまでも正確に思考のかたちをとった「生活」そのものである
p.75-76

その「新しい視点」の最たるものは、思想の潮流として保坂氏を遡ったところにウィリアム・ジェイムズがいるという指摘でした。
僕はジェイムズの『プラグマティズム』を読んで哲学の面白さに目覚めた人間なので、保坂氏とジェイムズが繋がっているというだけで欣喜雀躍の感があります。
本書で抜粋されていた『根本的経験論』も機会があれば手に入れようと思います。
…そうだ、『宗教的経験の諸相』の上下巻(岩波文庫の青)をたしか学生の頃に途中で挫折していたはずだけど、今なら読めそうな気がします。
今年の夏休み課題図書にしようかな。


そうだ、あと最初に書こうと思っていたのは、本書の3章から村上春樹氏が頻出するようで、巻末の引用作品索引を見てもハルキ本がとても多いのです。
で、第1章の例もあり危険な匂いがするので(僕は今村上春樹を絶賛贔屓中なのです)、せめて引用作品は全部読了してから続きを読むことにします。
巻末に載っているハルキ小説は9冊で、全部手元にあるのですが3冊が未読です(『アフターダーク』、『スプートニクの恋人』、『ノルウェイの森』)…と思ったら、『森』はありませんでした。
『森』はまだウブだった頃に手にした初めてのハルキ小説で、(たしか立ち読みで)読み始めて数項で性的な表現に遭遇して慌てて本を閉じ、それ以来長らくハルキ小説に近寄れなかった因縁の本でもあるので(当然今ならするりと読めますが)、やはり他人の解釈を仕入れる前に自分で読了しておきたいですね(とか言いつつ既に先入観が出来上がっているわけですが、それを今の自分がどう克服するかという点に興味があります。大袈裟に言ってますけど)。

普通に予定を組めば1年くらいかかりそうなので、ハルキ本の中でもこの3冊を優先して読むことに…しようかな、どうしようかな。
また『1Q84』が遠のくなあ…。