human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

軽井沢ワイルドカード

先週後半から会社の研修で軽井沢へ行っていました。

「軽井沢」とだけ聞くと優雅ですが、一応お仕事です。
6年目になった同期と一緒にグループ討議やご飯や懇親会などなど。
部屋割りで鼾が凄い人と当って二晩とも眠れなかった以外は無難に過ぎました。
睡眠不足のせいで余計なことを考えなかったおかげかもしれません。


ちょっと真面目な話を書きましょう。自分の話です。

人事の係長(なのかな?社内ではサブリーダと呼称しています)が研修を仕切っていたのですが、今回の研修の目的の一つは「他者(同期)と比較して自分の長所や短所を知る」と言っていました。
研修内容の半分以上がグループ討議とその発表(+グループ同士で質疑応答)だったので、実際やっている間はそれどころではなかったですが(睡眠不足で余裕もなかったので)、思い返せば「他者との比較」の格好の場だったなと思います。
同期という枠組みで集められているので、専門も違う(各種研究開発部、知財部、事務など)し年齢も違う(高卒〜博士卒)し、様々な能力にも差があります。
グループ討議の課題は会社の経営方針に関わることで専門の差による有利不利はなく、能力の差が表れるのはプレゼン(喋り)の上手さくらいでした。
具体的には発表の出来の他に、各グループの発表後の質疑応答を行う人がある程度固定されていたことに表れていました。

2年ごとにこの研修をやっていて、今回は3回目で最後でした。
僕は1、2回目ともグループ発表での喋りや講評での発言を避けていました。
それは僕が人前で喋るのが苦手で、喋る人間が他にいるなら敢えて積極的にいく必要はないと思っていたからです。
それが今回の研修では、グループ討議が始まる前から「仕切る人間がグループ内にいなければ自分がやろう」と思うくらいに積極的でした。
この変化は「自分の役割の自覚」がもたらしたもののように思われるのですが、その自分の役割とは「調整役」なのですね。

ある場面である集団が目的を恙なく達成するために、目的を達成しようとする集団の構成員の性質によって自分の役割を決める。
仕切る人がいれば自分はサポートにまわり、みんなが前に出たがらなければ自分が先頭に立つ。
また、グループ討議の中でみんながテーマの議論に白熱して進行(残り時間に対する進捗)に意識がいかないようなら自分が要所で話を整理して残り時間とあとすべきことを知らせる。
あるいは、テーマの漠然さにみんなが考え込んでしまって議論が進まないようなら、話がテーマから逸れることを厭わずに一石を投じるような問題提起をする。

こういった、状況に応じて色んな役割をこなすことが、今回は自然にできたような気がします。
実際の発表の出来は散々な部分もありましたが(発表・質疑応答の後に人事係長と取締役が講評をしたのですが、三度あった発表の二度目で自分のグループは取締役から、後に続く発表者を震え上がらせるほどの酷評を受けたのでした。夕食の直前で(空腹のために)取締役の機嫌が悪かっただけという説もありますが)、自分のグループの成員5人がそれぞれ役割を全うできるように討議ができたことについては満足しています。
この自分の中での総括も僕の価値観を表していて、それは「結果よりも過程を重視する」ですね。
実際の(通常の)会社での仕事と違って研修なので成果がそれほど求められていない面もありますが、僕は実際の仕事でも同じように考えています。

成果のある仕事をこなして部署の人間に労(ねぎら)われるのはもちろん気分が良いですが、そのことと仕事内容の充実度とは全く別で、成果が出てもつまらない内容だったら面白くありません。
こう文章で書けば当たり前に聞こえますが、「成果を出すことの充実」と「内容そのものの充実」を混同することはよくあります
たとえば後者が望めないようなら前者だけで満足してしまおう、と思うわけですが、そうすると何が起こるかといえば「内容そのものの充実」を追求する姿勢を失くしてしまいます。
僕はそれはイヤで、なぜかといえば、成果が出なくなればその仕事に充実を見出せなくなってしまうからです。
だから、どちらの充実に対しても、満たされなければそれぞれに不満を感じられるようにいたい。
その不満を解消する方向に動くかどうかはまた別の問題ですが。

途中で話がずれていますね…
言いたかったのは、「成果」は外からの評価であるのに対し「内容の充実」は内からの、自分自身の評価だということです。
自分の意識次第で、内容はいくらでも充実させることができる。
けれど逆に言えば、仕事に自分の思考を介在させなければ自分の力では内容を充実させることができないということです。

「仕事は人のためにするものだ」と言いますが、その伝で「成果を出すことの充実」だけでもいいじゃないかと思われるかもしれません。
人がやって欲しい仕事をこなしさえすれば、その仕事を自分がどう評価しようが感謝はされるだろう。
それはそうです。
が、もし、仕事をする人の(たとえば一つの会社内で)全員がそういう考え方をすればどうなるか。
その時の「成果」とは一体何だろうか?
自分が研究所で働いているからこう考えるのかもしれませんが、きっとその時の「成果」とは何ら新しいものではなく、即ち価値がない。
だから誰かが、少なくとも最先端の研究に携わる人間が、「内容の充実」を追求しなければならない。


話があちこち行っていますが、もともと研修の話を書こうと思って中身は書きながら考えようと思っていました。
だから文脈の秩序のなさには頓着していませんが、そうなると当然読みにくいですね。
それは仕方ないとして…結論みたいなことを書きます。

今回の研修は色んな巡り合わせによって自分自身に対するプレッシャがほとんどなかったために、自分がよいと思う価値観通りに動けた気がします。
そして研修中の自分は、自他の境界が薄くなっていたように思います。
来週からの通常業務では、またいつも通り殻に籠ることになりそうです。
それは部署柄に合わせた結果でもあります。
けれど、「境界を薄くできるタイミング」には敏感になっておきたいと思いました。
溶け込みたくない集団が近くにあると、その周囲の(わりと印象のよい)集団に調子を合わせるのも難しくなるのですが(それは一貫性へのこだわりが強いせいかもしれないし、単に不器用なだけかもしれない)、僕の自然体は境界を厚くするのでなく薄くする方にあることはたぶん間違いありません
もちろん、自然体でいるべきかどうかを決めるのは僕ではなくて、という発言は僕の自然体の追求を二の次に据える「次数を一つ繰り上げた状況依存」であって、これは身体の自然体より脳(価値観)の自然体の実現を重視している点で脳化社会への適応と言えなくもない。
複雑ですが…本当かな。

あ、タイトルは意味なし回文(軽井沢技イルカ)の成れの果てです。
元が意味なきゃ果てても無意味。七七。