human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

無題5

傘の中にはリュックサックにクマのキーホルダ、そして密閉型の大きな赤いヘッドフォン。

車通りの多い三叉路にかかる歩道橋の手前で、制服の女の子が前を歩いている。
歩道橋を渡れば桜並木(もちろんこの時期は青々と葉が茂る)の坂の先に高校があるから、まず間違いなく高校生だ。
土曜日だし時間からしてクラブ活動で、文化系ならたぶん軽音楽部だろう。

耳を塞いでいる歩行者には隙だらけのタイプと隙のないタイプがいて、後者は耳を周囲の知覚に用いない分を周辺視野と皮膚感覚でカバーしようとするもので、視覚と言わないのはこのタイプできょろきょろする人はほとんどいないからなのだけど、彼ら彼女らは前者と比べてわずかに身体が強ばっている。
というのは後者である僕の僕自身の観察結果によるのだけど、前を歩く彼女も後者で、後ろを歩く人間(つまり僕だ)に対する緊張が漂っていて、にもかかわらず歩くのが遅いので面倒だなあと思う。

歩道橋の上では追い抜けないので、渡ってから坂の上り始めのところで道路の反対側に移って彼女をさらりと追い抜く。
別に彼女を意識したわけでもないが、坂を上る時はいつも道を覆う枝葉を見上げながら上っていて、雨がほとんど止んでいるので傘を閉じて空を見上げる。
斜め後方で彼女も傘を閉じる気配を感じる。


雨が降りそうで降らない空はなんだか優柔不断な友人の決断を待っているようで、降ってほしいわけではないがいっそのこと降ってくれた方がすっきりする。
けれど歩きながら空を見つめていると雲というか水蒸気の密度に濃淡があって、街を見下ろすと遠くの霞み具合も一辺倒ではないように思えて、なんだか特別な気がしてくる。
何が特別かはよく分からないが、雨が本格的に(しばらく降りますよ、という感じで)降り始める場合は、あたりは均一に水ですっぽり包まれるようになるので、濃淡を感じないのだ。
雨はたしか湿度がどんどん上がって水蒸気が気体としていられなくなって降り出す場合があるはずで(場合が、と書くのはその他には大気中の微粒子に水蒸気がまとわりついて落ちてくる、のもあった気がするがそれは雪かもしれない)、湿度は雨が降り始めると下がるはずだ。
つまり雨が降るか降らないかくらいがいちばん湿度が高くて、その大気の状態は不安定といえる。

そうだ、雨が降る直前は「境界」なのだ。
安定した2つの状態に挟まれた不安定な過渡的状態。
自然環境における境界は美しいものが多く、人はそこに惹き付けられる。
太陽が空と地平の境界に佇む夕日。
暴風雨の合間にぽっかりと開ける台風の目。
雨が降る直前の雰囲気はそれらと比べて劇的ではないし、だからこそ今まで考えもしなかったけれど、何か魅力があるような気がする。

それはきっと、傘を手に持って歩いていては気付かないことなのだ。
なぜって、これに気付いた僕は、傘をリュックに引っ掛けて歩いているから。
傘を手に持って雨が降り出すかと構えるのは雨に濡れたくないからで、それは雨を感じる姿勢からは程遠い。
かといって、レインコートで完全防備していると肌感覚が鈍ってしまう。

結局よくわからないけれど、なんだかまた一歩、雨が好きになれたような気がする。