human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「手間返し」と「脳の身体擬制」について

今日はVeloceで久しぶりに会社の人(一時期だけ同じ部署だった社長秘書氏)と遭遇し、話し込んでしまって調子が狂いました。
もちろん悪いことではないのですが、いつも土曜は二言しか喋らない(「ニラレバ炒めのご飯大盛りで」と「ブレンド(コーヒー)のLを」)ので、けっこう疲れて、彼女が先に店を出た後にしばらく放心してました。

出身の話になって、「大阪だよ」(だよ!)と言っていつも驚かれるんですが、生粋の関西人として関西弁の例を挙げようとして「『〜しはる』、って『〜していらっしゃる』の意味で、こっちでも使うけど短くて便利でね、あとはね」と調子づいたと思いきや「……」(上を向いて5秒静止)ってなって、ああもうダメだなと思いました。
もう「じゃん」って違和感なく言えちゃうし…でも帰阪すると関西弁に戻るんですけどね。
どうでもいいんですね。
会話してない証拠ですね。
まあ、やっぱりどうでもいいんですが。

+*+*+*

そんなこともありつつ、なんとか予定通り『里山資本主義』(藻谷浩介)を読了しました。

本書がちょっと煽り口調なのは、未来を描けない若者を奮起させんがためだと思うんですが、それは藻谷氏の地ではなく、とても底の深い人だろうなと感じました。
たぶん色んな語り方ができる人なのでしょう。
『日本辺境論』が新書大賞をとったことを意識してだと思いますが、日本は辺境民だからという文脈で一度だけ内田樹氏の名を本書で挙げていました。
その名前を見て感じたのかもですが、本書には随所にメタ・メッセージ(「こう書くとこういう風に思われるかもしれませんが」とか「さっき言った事を早速否定するようですが」とか)が挿入されていて、仕事柄でしょうが講演慣れしているのだなと思いました。
とはいえ本書は講演の書き起こしではなく、喋っているような文章だというわけでもありませんが。

抜粋を二つだけしておきます。

 手間返しとは、地域の人々がお互いにお世話をしあい、お返しをする無限のつながりをさす。和田さんがお世話になったお礼に、メッセージを刻んだカボチャを送っていたのを覚えているだろうか。ああいったことを、みんなが手をかえ品をかえ、延々と続けるのである。
 和田さんは、て曲師についてこう語る。「これが楽しいんですね。なにかしてもらったら、今度はどうやって返してやろうかと。それを考え、悩むのがまた楽しいんですね。どうやって驚かせてやろうか、わくわくするんです」
「『手間返し』こそ里山の極意」p.226-227(『里山資本主義』)

この「手間返し」は、社会の中で人が生きることそのものだと思います。
地域のつながりが少ないと言われる都会でも、大企業からベンチャーまで、もっと小さくは一家族の中で、つまり「目的をもって維持される集団」での日常的な営みとしてそrはあります。
ただ、生活が便利になれば「手間」は減るし、仕事がシステム化・マニュアル化されれば個人の工夫の余地もなくなっていきます。
生活あるいは仕事に「手間」がかかるほど「手間返し」が起こりうるし、不便であるほどそれが人とと人とをつなげるきっかけとなる。

都会の生活には破局的事態に脆い(天災が起き、流通が止まればお金は何の役にも立たなくなり、自給のメドもない)という漠然とした不安があり、里山資本主義はその保険となる、と本書には書いてあります。
そして、その不安を解消すべく地方にUターン、Iターンする若者が増えている一方、不安を煽り合うことでみんな同じ不安をもっていることを確認して「みんな同じ」という安心を得る動きもある。
自覚は大事なことですが、自覚しているにせよ無自覚にせよ人は自分が望んでいる方に向かうもので、「こういう現状がある」という情報さえ行き渡れば、あとはなるようになるのだと思います。

 五〇年後の誰かが筆者の論考を目に留めて、「五〇年前にすでにこれを論じていた人がいたのか」「今の世では当たり前になっている話も、五〇年前にはこのように熱意を込めて書かないといけないほど、受け入れられにくいものだったのか」と評価をいただくこと。僭越を極めているようだが、これが筆者の心からの目標だ。
「あとがき」p.307

こういう長いスパンで物事を考えなきゃな、と思います。
普段の生活に追われるだけでは決して思い至らないので、こういう思考態度は意識的に構築する必要があります。
自分の子や孫や、さらに下の世代のことを、彼らが生きるだろう未来の社会のことを。
その未来の社会に希望が持てないようなら少子化もむべなるかな、といったことは本書にも書いてありました。


ここを読んでだったか忘れましたが、養老先生のいう「脳化社会」のことをふと考えました。
脳化社会とは、頭の中で考えたことだけですべてが構成される都会のことを指すのですが(「都市計画」は100%頭の産物だし、都会で問題が起これば必ず誰の責任かが問われるのも自然が排除されている結果です)、そこに暮らす個人を考えてみると、脳と身体のバランスが前者に偏っていてこそ違和感なく生活できるわけです。
で、本来のバランスがなぜ脳の方に偏るのかについてですが、近視眼的価値観がひとつあるのかなと思ったのです。
株式会社の四半期利益の追求と同じイメージで国家運営がされている、と内田樹氏はよくいいますが、四半期は「国家百年の計」の時間軸と比べれば明日の米事情を心配するようなものでしょう。
…話逸れそうなので戻しますが、言いたいことを先に言えば「脳の目先の利益追求は"身体のふり"なのではないか」と思いつきました。
脳が身体のふりをすることで、脳と身体のバランスが脳に偏っていても、「バランスがとれている」と錯覚することができる。
身体はリアルタイムの快不快に敏感なわけですから、先のことなんて考えないわけです(人が何十年も生きられるのは身体がそういう設計になっているからで、意識して予定を立てているからではない)。
つまり、リアルタイムの快不快に反応することは身体との親和性が高いわけで、脳がそれをかわりにやってしまえば身体の方が「まあいいか…」と思ってしまう、こともあるのではないかと。

社会あるいは個人の「脳化」は身体の許容範囲を越えたところで反動が起こるだろう、それは人間が動物である限り必然だと思っていたのですが、脳が身体を擬制するのが人を動物と隔てる点だとすれば、もしかして「脳化」は歯止めが利かないのでは、と…。

まあ、もしそうでも身体側と脳側に二極化するのでしょうけど、影響力が段違いな気もして(一方は「身の丈」で、他方は「身の丈を越える」わけです)、怖いですね。
キアヌ・リーブスの『マトリックス』ってそんな話やなかったですっけ?)

とはいえ、身体側は「身の丈」から始めるしかないのです。
これは確か。
これはニヒリズムではなく無常観、行雲流水であって…
落ちないですね。オチがない…

うん、脱亜入欧ならぬ「脱西入東」ということでどうかひとつ。
いや、もちろん嘘ですよ。
三つ子の魂、ですからね。

以上、「オチ落とし」という高等テクでした(かわ嘘