human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「走れば勝ち」について

毎晩走っているといろいろ考えることがでてきます。
いろいろと言ってもたぶん途中で挫折するので、本記事ではひとつだけ。


まず、ランニングと会社での仕事とは一貫性がないこと。

当たり前といえば当たり前ですが、ランニングを除いた普段の生活と仕事とを比べると、こちらはあるコンセプトを共有しているように思えます。
一言でいえば、どちらも「頭の中の出来事」なのです。
「日常の80%は頭の中で起こっている」という名言が『太陽の塔』(森見登美彦)にあります、研究開発から知財に移ってからの僕の日常はどうもこの通りになっているようです。
仕事の価値観と生活の価値観は全く異なるのですが、どっちも頭の中の話だからプラスとマイナスにもできて、両者のバランスはとりやすい。
言い方を変えれば、脳だけでそのバランスをとることができる。


一方でランニングは何なのかといえば、当然「身体の出来事」ですね。
人間は脳と身体のバランスをとってこそ無難に機能するので、脳偏重の生活においてランニングは人間を維持するうえで効果的ではあります。
が、それは人の総体の話であって、脳からすれば(脳偏重の生活がベースであればなおさら)身体の賦活なんて迷惑でしかありません

このことは毎晩実感できていて、夜走りを始めた最初の頃は脳も「生活がどう変わるだろう」と興味を持っていたのですが、慣れてくると興味が薄れ、走ろうかなという時間になると明確に拒否の意志表示をします。
具体的には「頭が重い」「身体がだるい」等の不調を訴えるのですが、冷静に身体に聞き耳を立てると別に体調が悪いわけでもなく、まあ習慣だから出ようかとジャージに着替えて逆立ち(これは首凝り対策ですが、ランニング前の準備運動にも含めています)をするうちに身体が軽くなっていき、外に出て屈伸や伸脚をやっている時は「今日はどの橋まで走れるかな」(寮から近い川沿いをいつも走っています)などと考えたりしています。

部屋を出る時はいつも「走るのがイヤだったりつらかったら、スタートしてすぐ引き返せばいい」とわりと本気で思っていて、しかし途中で引き返したことはまだ一度もないのです。
つまり、会社にいる間も帰って部屋にいる間もほぼ脳が優位の状態でいて、ランニングの前にはそれを身体優位の状態に切り替える必要がある、ということです。
走った後はシャワーを浴びてすぐ寝るのですが、身体が興奮していると眠れないようにも思えますが実際は寝付きがよくて(これから暑くなるので先はわかりませんが)、これは睡眠が身体優位の行為だからでしょう。

また、走る前は不平を言っていた脳は、走り始めると「せっかく走り始めたのだからすぐ止めるのはもったいない」とも考えているようです。
走る前の、脳優位状態の僕の全体(変な言い方ですが…)は走ることを嫌がっていて、でも「それ」をなだめすかしながら走りに出たのは僕の意思、つまり脳が選択した行動でもあって、脳は思い通りに事を進めたいものだからここでご都合主義的に振る舞うわけです。
長期的に物事を考えるのは脳にしかできませんが、時に視野狭窄になって目先のことしか考えられなくなるのは、身体の介入(人全体の主導権を身体に奪われる)のためです。
スポーツでも、生理的欲求の追求でもそうです。
よくいえば、人の総体がどういう状況であろうと、脳は自分の考える最善の行動をとろうと(=人にとらせようと)する。
けれど、その「人の総体の状況」を適切に(たとえば健全に)維持するのは、脳だけでは不可能です。
だから時には脳が嫌がることもやる必要があって、もちろんそれは同時に身体が喜ぶことでもないといけないのですが。

この記事も「脳をなだめすかせる」ために書いたようなものですね。
走り出せばしめたもの、走り始めるところまでどうもっていくか。
出産と比べればスケールは小さいですが、問題の質としては共通です。
つまり「案ずるより産むが易し」ですね。
ただ「案ずるな」ということではなくて、生活全体が「どっぷり案じて」いるから、その生活との整合性をとるために「産む前にうまく案じなさい」ということです。
…書いたそばからことわざと違うことを言っている気がしますが、もしかしたらこのことわざは現代からすると古いのかもしれません。
「案じない」ことは、社会が許さないのですから。

あれ、なんでこんな話に…。


タイトルは「(毎晩の)脳と身体の勝負」のことを言っています。
どちらが「勝つ」かは、もう言うまでもないですね。