human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

それぞれの生き方

Macの書類フォルダを整理していたら、古い文章がいくつか出てきた。
2つ前の記事もそうだが、当時はあまりに私的な出来事で公開が憚られた。
今はもう時効で、というかぼかして書いていて事情は自分以外には分からない。
時々そういう文章を公開したくなるのは、風通しを良くするためだと思う。

封を解いて空気を入れかえることで、現在なりの「当時の感覚」が得られる。

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それぞれの生き方

2012/07/07 16:50
「分け合えば余る」の続き。
書いておかねば、と思ったので、書く。
手の震え、体の震えは自分への「命令」だろう。


その時の自分のふるまいについて。
反省というものはたぶんやらない。
前に書いた「現場感覚を信じる」立場で読み解く。
振り返って驚きを覚えた行動を2つ挙げてみる。

ひとつは、相手の親密な態度に「後ずさった」こと。
無意識に思わず、という言い方がこれほど当てはまることはないというくらい、自然な動きであった。
何がそうさせたか。
まず「過去のメールと今の態度の解離」に驚いたのだ。
なぜそんな親密な態度が取れるのだ? と。
ただこれは今考え直して答えは出ていて、つまり「彼女はそういう生き方をしている」ということ。
「女(の女性性の部分)は」と言っていいと思う。
一人でいる時に頭で考えたことと、人を前にしての行動が解離している
それは自分も同じだ。
同じなのだが、強度が比較にならないと感じた。
「人が人といる時のあたたかさ」と呼べるものを、実感として、多くの経験の蓄積から、大事にしているのだ。
その場に思考の入り込む余地はない。
僕がたじろいだ(いや、「たじろげた」)のは、ある程度身体反応を思考で制御しているからだ。
人と人が相対する現場での身体の自然なふるまいと、そのふるまいに違和感をもつ思考を内に抱えた脳の葛藤が、そのふるまいに出てしまう。
だが、女性性には現場でのその葛藤がないのだ

もちろん相対的に、だろうが。

もう一つは、「相手の名前を相手の前で口にした時の違和感」。
名前を呼んだ時に、「あれ、これで合ってるっけ?」という不安を覚えた。
その名前の響きが虚ろで、共に使われた丁寧語が「距離間の証明」であることをひしひしと感じた
今考えてみるに、これはすごいなと思った。
こんな正直に出るものなのか、と。
反省や後悔の念に見舞われた過去があり、その経験が自分の中の彼女のイメージを徹底的に変質させたということだろう。
これは身体と脳の相互作用なのだが、思考がこれほど身体反応に影響を及ぼすものなのだな、という驚きだ。
もちろん人間一般の性質に違いないが、自分はこの傾向(性能?)が人より強いと思う。
そしてこれを「想像力がある」と言ってよい。
だから特に直そうとは思わない。
自分の肯定すべき生き方を現代で貫く上での一つの弊害だととらえている。

自分は自分のよいようにふるまい、相手は相手のよいようにふるまう。
両者の相対する場でなにがしかのコミュニケーションがかわされ、それぞれの立場にはフィードバックがなされる。
そう、それでよいのだ。
何をよしとするかが人によって異なる。
コミュニケーションの成立に重きを置く人がいれば、成立の如何はその意味に因ると感じる人もいる。
自分の思う通りにふるまえなかったことを嘆く人がいれば、その「失敗」にも思えるふるまいが「起こるべくして起こった」として意味を求める思考が起動する人もいる。
何か評価を下そうと思えばどこまでもその人や関係するものを掘り下げねばならず、それをして得られるものはないというか中途半端な形以外で断言などできないだろうし、何よりまず誰もそんなことをしない。
大方の人間(いや、「男性性」と言っておこう)がするのは、中途半端な思考と中途半端な断言だ

何がしか、落ち着きどころを求めてしまうのが人情だ。
それでもいいのだと思う。
自分は、今の自分は、それを「弱さの発露」ととらえてペンディング(保留)する努力を肯定する
頭の体力がもつ限りで、だが。

うん、すっきりした。


ここまで書いて、手の震え、体の震えが止まった。
まあ書いている途中で既に止まっていたのだが。
とするとあの疼きは「書いておかねば」という衝動だったのだ。
もちろん書く前からそう思っていたし、そう書いた。
思考欲?
それ「だけ」だったと言うつもりはない。

名越(康文)先生が著書の中で「充実した経験をした時に、その具体的な感覚を覚えておく」ことの重要性を指摘していた。
同じことが起こった時に解釈を間違えないためでもあり、自分からその状態にもっていく可能性を充実させるといいう意味もあるだろう。
著書でそう言っていたかは記憶にないのだが。
で、そう、ここで言いたいのはつまりこうだ。
あの疼きを覚えておけ」と。
あれは文章を書きたくて仕方がなかった瞬間だったのだ、と。
その「どうしようもない意志」の宛先が「自分のいちばんやりたいこと」で、その意志が自分の中に生まれることはとても幸福なことだと思う。

どうも、おあとがよろしいようで。

2012/07/07 17:27

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書く頻度が高いと、書きたいという衝動に鈍感になってしまうことがあります。
書くことが習慣になって、良いことと悪いことがある。
悪いことは、その衝動を待てなくなること、ですね。
過去の自分の切迫した文章を読んで、考えさせられるところです。

自分を裏切らない言葉で書けていれば、その習慣は良いことでもあるのですが。