human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「底なしの感覚」のこと

 どうやら人々は僕らのために、そこにある無蓋の用水溜を危険視しているらしかった、その底の泥に溺れて死んだ少年のことを思い出して。扉の後ろには、僕らのいわゆる千年も前から動かない水が眠っていた。溜り水の話を聞くと僕らはいつもその水を思い出したものだ。まるい小さい水草の葉が、緑の布地のように一面にその水を蔽うていた。僕らが石を投げると、そこだけが穴になって残った。(…)僕らが抛り込んだ小石は、星のようにその運行を始めるのだった、なぜかというに、僕らにとってあの水は底なしの水だったので
「南方郵便機」p.234(サン=テグジュペリ『夜間飛行』)

村上春樹の小説には井戸がよく登場します。
砂漠の井戸に落ちて雨露以外口にできず、何日も頭上を日や月が通るのを眺める。
あるいは引き寄せられるように井戸に降りて瞑想し、壁をすり抜けて異世界に降り立つ。
「底なしの井戸」の話は未だ知りませんが、「底なしの地割れ」は記憶にあります。

世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』で主人公は地底世界を冒険する。
東京の地下鉄よりさらに地下の洞穴道を進むうち、間歇的な地震が起こる。
地震の衝撃でできた地割れに、小石を落として耳を澄ませると────。
「底なしの感覚」はたいてい、恐怖心を呼び起こします。

それが『夜間飛行』の少年達の想像力にかかれば、宇宙的な魅力を帯びます。
抜粋の最後の一文を読んでいるその最中に、「星の運行」が僕の脳裏に描かれました。
そして用水溜に石を投げて、耳を澄ませる彼らの夢想的な表情も。
きっと「底なしの感覚」には本質的に、恐怖と恍惚の双方が含まれるのでしょう。

あるいは恐怖と恍惚は、同じものに対する二つの見方なのかもしれません。