human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

「夜走り」経過報告2 - 疲労バランスと「姿勢」の話

どうも過渡期のようなので今書けることを書いておきます。
(ちなみに会社のGWは来月なのでこの時期はふつうに仕事してます)

まず先々週末にいきなり走り始めたのでさぞや足も痛かろうと思いきや、
身体の中で「一番つらい(疲労が大きい)」部分は足ではありません。
どこが一番、と考えるとよく分かりませんが、疲労は首と腕と足にあります。
首は肩まわりと共に宿痾の凝りで、相変わらずの傾向です。

そして腕とは、手首や指もひっくるめて、昨年の暮れに始めた逆立ちの影響です。
「指立ち」のコツを掴めてきましたが、おかげで小指の付け根がズキズキします。
また「拳立ち」も日課でやるせいで手の甲の骨(薬指付け根辺り)にマメができました。
こんな所にマメができたことはかつてなく、他に何をすればできるのか想像もつかない。

話を戻して、では満身創痍かといえばそんなことはなく、仕事に支障はありません。
全身が満遍なく疲れるというのは意外とふつうでいられるようです。
一つ感心しているのは首の凝りが腕や足の筋肉疲労に負けず劣らずという点で、
デスクワーク時に首や肩にかける負担は恐ろしいほど蓄積されているのだと思いました。

そして首の凝りは相変わらずと言いつつ、漠然とした不安は薄れてきています。
全身の疲労のバランスがとれると、一種の安定状態に達するのかもしれません。
その状態はまず過渡的で、そこから各部位が同時に治癒していくとは思いませんが、
「疲労に対処する細胞の配分」が分散されることは何かをもたらしそうな気がします。

たとえば回復が遅くなるかもしれないし、過剰反応が抑制されるかもしれません。


さて、上記は全身の状態の話でしたが、以下はランニングの話です。
先日「走りながら思ったり考えたりしていること」を、ここで書こうとしてみました。
何かを書きましたが、書く間に思ったのは、走る間は本当に頭が空白だったということ。
そして、机に座ってPCを前に、走る間の感覚を脳内で再現するのは不可能だということ。

けれど、走ることは思考にインスピレーションをもたらすはずだと思っています。
走ることそのことを書くのではなく、走ることで生まれる何かを書く。
村上春樹のあのエッセイのタイトルはそういうことを言っているのではないか。
…いや、発想が生まれるとかではなく、たぶん「姿勢」が出来上がってくるのだと思う。

日頃の行動のベースとなる姿勢、あるいは何かを思い、考える時の姿勢。
走る間の「視界にある諸々を含む空間との一体感」を無題4で書いた気がします。
あれは動物的な感覚でもあって、あるいは「個の境界の消失」という話かもしれない。
その感覚が日常に紛れ込むとすれば、行動の選択や思考にも確実に影響を与えるはず。

この感覚についても、「夜走り」を習慣化していく中での注目ポイントですね。