human in book bouquet

読書を通じて「身体へ向かう思考」を展開していきます。

必要と必然について

「必要」という言葉に、強く反応することがあります。
「必ず要る、というがそれは本当か?」と疑問に思うことが多々ある。
「必要」という言葉がその物や状況の必要性を形作るのは本末転倒とも思う。
自分の中に強い基準があると、人の言葉にも自分の思考を当てはめてしまう。

その基準を客観的だと思っていても、自分の思考を相対化することはできません。
相対化というのは、自分が持っているのとは別の基準で物事を測ることです。
相対化して「なるほど」と思うことがあれば、「そんなバカな」と思うこともある。
その感想は自分の基準によるもので、それに固執するとまた相対化から離れていく。

僕は、人が何かをやったというとき、余裕があったからできたのではなく、実のところはやらざるを得なかったからやったと考える。喜んでやったのか、嫌々やったのかは知らないがやらざるを得なかったからやったと思う。
最近 - 降りていくブログ

このくだりを読んで、森博嗣氏のいう「願望の実現」の話を思い出しました。
ある行動を選択するにおいて、いろいろな理由付けがなされます。
ベストな選択だ、仕方なく選んだ、選んだ感覚なんてない、何も考えなかった、等々。
本人の意識がどこまで及んでいたかはさておき、その選択は「必要」でしかあり得ない。

という書き方はしていませんでしたが…うろ覚えで書きますと、
例えば彼は新車を買いたいが値段が高く、お金がないので買いたいが買えないと言う。
しかしお金を手に入れる方法はいくらでもある(売る、借りる、盗む、偽造する、…)。
つまり「そうまでして」買いたいとは思わない、別にいらない、と彼は思っている。

これは言葉を正確に使っていないとも言えますが、問題はそこではありません。
彼は「しがない現実のせいで希望が叶わない」と自分では思っているが、本当は、
「しがない現実」に合わせた(別に車を買わなくていい、という)希望を叶えている。
「必要」も同じで、別にやらなくてもと言いつつやるならそれは「必要」である、と。

そしてなんらかの「必要」に応じて行われた結果は「必然」となる。
「必然」が後付けというのは、いかに先の「必要」を見出せるかにかかっているからです。
そして自分の行動だけでなく、他人の行動や選択に「必要」を見出せるかどうか。
これが最初に書いた相対化で、要求されるのは共感ではなく想像と理解です。

その他人が自分と親しければ、相手に伝わる論理をもとにした理解が必要です。
理解によってその人の「必要」は明示され、対話を通じて現実的に変化していきます。
しかしその他人と仕事上関わる程度であれば、理解に先行する想像が重要になります。
対話が行われない間柄だと、明示された論理は変化が滞り、固定化しやすいからです。

最近の仕事中の自分はこの「相対化のための想像」をサボっていたなと気付きました。

養老 今の人たちの欠けているのは、自分の利益にならないようなことを受容するという考えだと思う。与えられた素材がどんなものであれ、ともかくそれで我々は作品を描かなきゃならないんですよ、一生。そういう考え方が持てれば、こんなことやったって何にもならんだろうと思えることも、きちんと別の意味を持ってくるわけですね
 自分の一生というのは、たとえ汚い安いキャンバスと絵の具しかなかったとしても、それで描ける最大限の作品なんです。そういう課題を自分が与えられているという感覚が、昔の人は暗黙のうちにあったような気がする。それが、修行のようなところに出ていたんだと思います。
久石 サマセット・モームの『月と六ペンス』で、タヒチに行ったところで船長の男が自分のことを『私なりには芸術家のつもり』って言うでしょう。「私は生活そのものを通して、美への情熱を表すんだ」というようなことを言う。今、そのことを思い出した。「俺の一生は俺の作品だよ」という考え方ですよね
「第六章 人間はみな芸術家」p.181-182(養老孟司久石譲『耳で考える』)